礼拝メッセージ要約

2021718

マタイ福音書1125節から30

「休息」

 

11:25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 

11:26そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。 

11:27すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 

11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 

11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

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前回の個所と今回の個所の間には、悔い改めなかった町々に対する裁きが書かれています。裁きの所だけを読むと理解しにくいので、文脈全体を見ましょう。

第一に、イエス様は数々の癒し等、「力ある業」を行われたのに、悔い改めなかった(神に立ち返らなかった)人々が大勢いたことがわかります。それは、ソドムとゴモラのような腐敗した状態よりも悪いことだと言われます。

第二に、それにもかかわらず、一部の「幼子」は、イエス様の所に留まった事実があります。彼らは、「賢い者や知恵のある者(律法学者等、律法に精通している人のこと)」ではありませんでした。むしろ、取税人や遊女を含む、律法では排除されるような人々でした。

そして、このことは、決して偶然ではなく、神のみこころでした。

第三に、イエス様のところに来た人に与えられる「休息」が語られます。ユダヤ社会では、律法は神から与えられた「くびき」であると考えられていました。それは、元来、神からの祝福であって、喜んで担うべきものでしたが、実際には、規則が規則を生み、人々に担いきれない重荷となってのしかかっていたのです。しかし、イエス様のくびきはそうではないと言われます。

以上をまとめると、癒し等の祝福そのものは救いに直結しないこと。律法主義と救いは相いれないこと。救いはただ神の恵みによるということになります。どれも、福音の性質を語っていることがわかります。

それでは、もう少し詳しく読んでいきましょう。

 

25節から27節のことばは、マタイ福音書の中では、もっともヨハネ福音書の強調点に近い部分です。

25節に「あなたをほめたたえます」とあるのは意訳で、原文は「あなたに同意します(同じ言葉を言います)。」です。「父」と「子」の意志が同じであること。そして、その意志とは、みこころを「幼子」に現わすことでした。

言い換えると、イエス様のもとに集まっているのが、律法学者ではなく「罪人」であるのは、イエス様の主義や偶然ではなく、神のみこころであるということです。テモテ第一の手紙に「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこられた」とあるとおりです。

 

罪人が救われるという良い知らせが、現実にはしばしば拒否されるのは、本当の意味で「子(キリスト)」を知っているのは「父」だけだからです。ヨハネ福音書の表現では、キリストは「神のひとり子」であり、被造物のように造られたのではなく、ただひとり生まれたお方です。そして、被造物は「子」にゆだねられました。ですから、キリストは「主」と呼ばれるお方なのです。その「主」であるお方が被造物に対して「父」を啓示をします。「わたしを見たものは父を見たのです」と言われるとおりです。このようなことは、律法主義とは全く異なった世界を示しています。私たちの神との関係が、キリストとの結びつきによって成立する世界です。そして、それは、人間の側からの働きかけではなく、父のみこころ、つまり恵みによるのです。すなわち、救いとは、恵みによってキリストを通して神とつながることなのです。

 

それが「律法によらない」ということであり、律法そのものが悪いのではなく、また社会に法律が必要ないということでもなく、神とのつながりは、あくまでも恵みによるということです。その恵みへの招きが、「わたしのところに来なさい」という言葉です。律法の重荷で疲れている人への招きです。律法の重荷というのは、律法によって神に喜ばれようと苦労している人と、律法によって社会から排除され苦しんでいる人両方が背負っている重荷と考えてよいでしょう。このことは、当時のユダヤ社会だけでなく、今日の日本を含め、様々な所で見られます。規則、伝統、しがらみで身動きが取れない人々に向かって、「休ませてあげよう」とイエス様は言われているのです。

 

イエス様は「心優しく、へりくだっている」とあります。「心優しく」も意訳で、直訳は「柔和」です。山上の垂訓にも「柔和なものは幸いです」とありますが、「穏やかで、しかも芯が強い(忍耐強い)」というニュアンスです。「へりくだっている」というのも同様の内容です。そのようなイエス様のくびきを負うというのは、イエス様につながり、イエス様のよう柔和なものに変えられるということです。

しかし、これは常識とは違う世界です。普通は、キレないで穏健に人と接し、忍耐強くがんばっているために疲れてしまいます。そのような日常から解放されるのが「休暇」であり、「少しは気楽にさせてよ」という願いをかなえようとします。もっとも、日本人の多くは、休暇中も、予定をこなすことで忙しく、よけいに疲れてしまいますが。とは言え、反対に何もせずボーッとしたからと言って、本当の休みになるわけでもありません。

この地上に真の「休み」というのは、どこにあるのでしょうか。

 

それは、地上(律法によって成り立っている世界)にはなく、地上の状況を超えて、そのすべてを掌握されているお方のもとで見出す他ありません。そして、それは地上のくびきを負うよりもやさしいことだとイエス様は言われます。「柔和」であろうとがんばって疲れてしまうのがこの世の常ですが、逆に、自分でがんばるのではなく恵みにゆだねて生きて行くと、結果として「柔和」になるということです。

 

この「柔和」「へりくだり」というのは、人の隠れた部分のことであって、外から見てもわかりません。おそらく、自分自身のことでさえ、本当の姿はわからないでしょう。ですから、私たちの第一の関心は、自分が柔和かどうかではなく、あるいは、自分が休めているかどうかでもなく、キリストのところに行くことです。柔和、たましいの安らぎ(休み)は、その結果です。キリストの与える「休み」は、いわゆる「心と体の休養」というより、たましいが、あるべき場所にあるということなのです。

 

<考察>

1.律法主義の方が、不道徳よりも悪いと思いますか?

2.キリストの招きには、どのようにして応答しますか?

3.なぜ、「柔和」に価値があるのでしょうか?