礼拝メッセージ要約
2021年7月11日
マタイ福音書11章1節から19節(抜粋)
「つまずき」
11:2さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
11:4イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
11:6だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
11:11まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
11:12バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
11:14あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。
11:15耳のある者は聞きなさい。
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ユダヤ人向けに書かれたと思われるマタイ福音書では、イエス様の働きの要所要所でバプテスマのヨハネが登場します。それは、律法の支配する旧約時代から聖霊の恵みが支配する新約時代へ移行する節目にヨハネがいるからです。イエス様は公的生涯が始まる前に、ヨハネからバプテスマを受けられました。ヨハネが捕えられると、宣教を開始されました。今回の個所ではヨハネは獄中のおり、後に処刑されてしまう様子も記されています。
そのように重要なヨハネですが、なぜか獄中の彼はイエス様について疑念を持っています。聖霊と火でバプテスマを授けるお方であり、自分よりもすぐれたお方だと語っていたのに何が起こったのでしょうか。しかも、ヨハネはイエス様の行っているわざのことを聞いて、疑問を弟子に託してイエス様に尋ねたのです。「来るべき方は本当にあなたなのですか」という、ストレートな質問です。
ヨハネは近づいている神の審判を「火」で象徴していたのでしょう。聖霊と火によるバプテスマも、そのような審判のことを指していたとすれば、「審判」が一向に行われず、自分は投獄されたままでいる状態で疑念を持ったとしても驚くことではありません。「聖霊と火のバプテスマ」が見えないのです。ヨハネの疑念に対してイエス様は、様々な癒し、死者の生き返りなどの力ある業のことを語られます。これらのことの多くは、イザヤの預言の中で語られています(29章18−19節、35章5-6節、61章1節等)。そこでは、死者の生き返りと「らい病(ツァーラト)」のきよめこそ触れられていないものの、癒しと解放に加え、神霊、貧しい人への良い知らせのことまで預言されています。ただし、それらはすべて「神の復讐(裁き)」とセットで語られていますから、やはり、このイエス様の答えだけでヨハネの疑念が晴れたかは疑問です。まさに、「わたしにつまずかない者は幸いです」とあるように、つまずかないことは、ある意味、奇跡であり恵みなのです。
このことは、私たちに重要なことを教えています。それは、聖書の文字とイエス様の関係です。聖書には様々なことが書かれていますから、部分的に切り取って解釈してはならないのは当然です。また、11章後半のようにイエス様ご自身の発言であっても、その文字面を読んだだけではイエス様の心に触れることができず、かえってつまずいてしまうことがあります。今回の個所で言えば、神の裁きは聖書に明らかに書かれているのに、それが行われず、癒しだけが行われているのはなぜか分からず、彼はメシヤなのかを疑ってしまう可能性があるのです。
ある人は、「裁きは旧約・赦しは新約」と割り切って単純に理解しようとします。しかし、イエス様も裁きについて語られたことを無視することはできません。善悪の区別がなくなることなどあり得ません。ですから、私たちは神の恵みと裁きの関係をよく理解する必要があります。ポイントは、裁きが他人のことなのか自分のことなのかということです。ヨハネは裁きを待っていましたが、それはだれが裁かれるということだったのでしょうか。ローマの占領軍だけでなく、ユダヤ人も悔い改めなければならないというのがそのメッセージでした。では、いわゆる「罪人」(取税人や遊女など)はどうだったでしょうか。イエス様にとっては、そのような区別は意味がありません。というのは、すべての人は罪人だからです。つまり、この世の中で相対的に悪い人ということではなく、神の国に質的にあわないということです。それは、「山上の垂訓」ではっきりと示されました。そのような「罪人」に下る「火」はどのようなものでしょうか。それが、福音が語ろうとしていることです。そして、その福音を通さなければ、結局、イエス様につまずいてしまうのです。
メシヤが来て、人々の病気が治り、死んだ人まで生き返り、貧しい人が裕福になっても、それ自体でつまずく人はありません。問題は、貧しい人に宣べ伝えられている「福音」の中身です。赦されざる人が、ただ恵みによって赦されること、そして、その根拠は、メシヤの見せたパワーではなく、十字架上の死であるということ、これが「福音」であり、福音につまずくのはイエス様につまずくことです。しかし、神の恵みによって、つまずかないでイエス様のもとに来れる人は幸いです。
「女から生まれた者」(普通の意味での人間)の中で、ヨハネは最大の存在だと、イエス様は最大限の賛辞を送りました。しかし、天の御国の最小の者でも彼より大きいとも言われました。これは、もちろん、私たちがヨハネより有能だとか有名になるということではありません。言わんとしているのは、天の御国の者は、聖霊によって生まれたということです。もちろん、最初は女から生まれた者が、後に新しく生まれるのです。つまり、本質は事の大小の比較ではなく、質的に別の存在だということです。この質の違いは、文字と霊、行いと信仰、律法と恵みといった違いのことであり、私たちの生活の土台が違うということなのです。
12節は難解な箇所のひとつです。ルカ福音書の類似箇所では、人々が神の国に殺到しているというように読めます。ミカ2章13節と関連付けて、御国が「ほとばしり出ている」と訳しているものもあります。しかし、マタイ福音書の表現は、「暴力的な攻撃」が「御国を奪っている」ですから、そのまま読めば、厳しい弾圧のことを指していると思われます。弾圧は、今まさにヨハネが経験していますが、それは御国に対する攻撃に他ならないという意味になります。いずれにしても、獄中のヨハネはメシヤの訪れを告げる「エリヤ」であるということです。
ただし、それはあくまでも「あなたがたが進んで受け入れるなら」(受け入れたいなら)という条件が付いています。だれにでも明快に分かることではなく、「耳のあるものは聞く」という態度が求められています。ヨハネのことに限らず、神の国のことは、自分の問題として「主体的に」関わらなければならないのです。
<考察>
1.ヨハネのように「イエス様は自分の期待と違う」と感じたことはありますか?
2.どのような「火」を期待しますか?
3.どのような時に「つまずき」の危険を感じますか?