礼拝メッセージ要約

202174

マタイ福音書1032節から42節(抜粋)

「十字架を負って」

 

10:32ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 

10:33しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

10:34わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。 

10:38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:39自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

10:42わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。

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艱難に直面することが避けられない弟子たちに向かってイエス様が語られた言葉は、大変厳しいものですが、これも、聖書を部分的に切り取って読むと誤るので注意が必要です。

まず、人の前でイエス様を知らないと言う者は、イエス様からも知らないと言われるとの言葉ですが、私たちはイエス様を3回も否定したペテロが赦され、後に弟子のリーダーとなったことを知っています。また、否定どころか弟子たちを迫害し、実質的にイエス様を冒涜したパウロも赦され、最大の使徒とされたことも知っています。十字架の恵みは限り無いのですから、今回の言葉は、あくまでも励ましの一種と考えるべきでしょう。

 

次の、「平和ではなく剣をもたらす」という部分を、しばしば悪い意味でとりあげられる箇所です。「キリスト教は戦争好きの宗教」だとか、「先祖をないがしろにする宗教」だとか呼ばれることもあります。実際、自称キリスト教国が犯してきた数々の悪事や、聖書を引用しながら聖書から外れた行為によって人間関係を破壊してきた様々な出来事を考えると、改めてこの聖句をしっかり読むことの必要性が痛感させられます。

宣教はシャローム(平和)を分かちあうことだというのが、この箇所の出発点でした。そもそも、イエス様は「平和の君」と呼ばれるお方です。神と人、人と人の断絶の壁を取り除くために来られたのです。そして、ご自身の死をもって、和解をもたらされたというのが大前提であることは、言うまでもありません。ですから、弟子たちが、イエス様は平和をもたらすために来られたと思ったとしても間違いではありませんでした。

 

それにもかかわらず、剣のことを言われたのは、もちろん現実に迫っている迫害のことをご存知だったからでしょう。「剣をもたらす」とは「剣を投じる」という意味で、イエス様が剣を用いるのではありません。しかし、当面の結果としては、イエス様を受け入れる人と拒否する人が現れ、受け入れる人は迫害されるのですから、そこに剣があることになってしまうのは避けられません。忘れてはならないのは、剣を使うのはあくまで迫害する人たちであって、弟子たちではないということです。パウロが言うように、私たちは「自分に関する限り、すべての人と平和を保つ」べきなのです。

 

それにもかかわらず「剣」が訪れる、それを「自分の十字架をおう」と表現されています。そして、それは「イエス様について行く」時に起こることです。ですから、自分の負う十字架とは、生まれつきのハンデとか、悪い環境というよりも、和解のために働く中で起こる苦難のことを表しています。これらのことは、要するにイエス様の在り方そのものの事で、イエス様に「ふさわしい」「ふさわしくない」とは、イエス様と方向性が同じかどうかということになります。

 

これらのことをまとめて、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」と言われています。有名な言葉ですが、不思議な言葉でもあります。

この文を直訳すると、「自分の魂を見つけた者はそれを(将来)失い、わたし(イエス様)のために自分の魂を失った者は、それを(将来)見つける」となります。迫害の文脈で語られているので、しばしば殉教と結びつけて解釈されます。そうすると、「この世のいのちを保っても、結局それは失うことになる。逆に、殉教をして一度はいのちを失っても、将来復活していのちを得ることになる」という意味になります。「魂」を「いのち」と訳しているのも、そのようなニュアンスなのでしょう。もちろん、迫害の中にいる人々に向かって、「恐れるな」と励ますという意味で、そう読むことも自然ではあります。

 

ただし、前段で「からだを滅ぼしても魂を滅ぼすことのできない人を恐れるな」と言われている個所では、この世だけのいのちを「からだ」、それを超えたいのちを「魂」と区別しているので、もう少し「魂」という言葉にこだわって理解することもできます。まず聖書で「魂」とは、その人の人格全体を表しています。「神が土から造られたアダムにご自身の息(霊)を吹き込むと彼は生きた『魂』となった」とある通りです。そうすると、「自分の魂を見つけた」者とは、その人のありのままの姿が、そのまま、その人の人格全体であるような存在のことになります。要するに、自分自身で完結している人のことです。しかし、それは当面完結しているように見えるだけで、自分を超えたところに根ざしていないので、やがて崩壊することになります。それに対して、自分の魂を失ったとは、自分自身で人格が成り立っていない状態です。そこに足りないものは何か、それが「わたし」つまり「イエス様」だというのです。要するに、イエス様を根拠として初めて自分の人格が成り立っている人です。それは、世間から見れば、神頼みで自信のない、欠陥人間ということになるでしょう。しかも、そのような人が苦しい生活を強いられているとするなら、なおさら忌み嫌うべき存在と思われるかもしれません。ところが、そのような人こそが「自分の十字架を負っている」人なのです。

 

そして、その人は結局「自分の魂を見つける」ことになります。この「自分の魂」は、もはや生まれながらの「自分の魂」ではなく、キリストと結びつき、キリストを根拠とした新しい魂であり、それは、キリストのものという意味では、自分のものではなく、同時に、それこそが神に造られた本来の自分という意味で、真の自分の魂でもあるのです。それを使徒パウロは、「もはや私ではなく、私のうちでキリストが生きておられる」と言っています。

 

そのような者がキリストの弟子である時に、彼らを受け入れる人は、「自己完結」しておらず、「キリストで完結」している者を受け入れることになります。それは、実際問題、キリストを受け入れることと同じ意味を持っているので、彼らもまた、弟子たちと同様の祝福を受けるのは当然のことです。ただし、その祝福が一時的ではなく永続するものとなるには、彼らもまた弟子の歩みを始めることが必要であるのは言うまでもありません。

 

―考察―

1.「わたし(イエス様)を知る、知らない」というのは、どういう意味でしょうか?

2.どのような「剣」を経験していますか?

3.「ありのままの自分」とは何でしょうか