礼拝メッセージ要約
2021年6月27日
マタイ福音書10章9節から41節(抜粋)
「正しく恐れる」
10:11どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
10:12その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
10:13その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
10:16いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
10:26だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
10:28からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10:29二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
10:30また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
10:31だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
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イエス様は十二弟子を宣教の旅に送り出す際、心得えるべきことを教えられました。今回はその一部です。
「宣教」は、その初期からいばらの道を歩むようなものであり、迫害も覚悟しなければなりませんでした。当然、普通ならば恐れなければならない事態もあったことでしょう。宗教家や政治家からの迫害だけでなく、身内をも含む多くの一般人からも理解されない状況も予想されました。そのような状況で、イエス様が「恐れること」についてどのように語られたかを読んでいきましょう。
弟子たちは、訪れる町でまず「適当な人」を見つけ、その家に留まること。その際「(平安)のあいさつ」をするように言われました。もし本当にふさわしい家なら、その平安(文字通りには、あなたの平安)がそこに留まるとあります。「平安」は、ユダヤ人の間では「シャローム」という、あいさつの言葉でもありますが、平和や繁栄を意味しています。「宣教」とは、自分に与えられている「シャローム」を分け与えることですが、それが直ぐに実現するかどうかは知らされていないのが分かります。「適当な人」を見つけるのは人の役割です。空中からビラを撒くように、手あたり次第に平安をばらまくことはできません。しかし、その平安がどうなるのかは、まさに神のみぞ知るということです。ここに、人の自由意志と神の主権の両立という「永遠のテーマ」があります。このテーマは、今回の個所の理解の隠れた前提となっていることを覚えましょう。
イエス様が弟子たちを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものだと言われました。要するに非常に危険なことであり、無謀と言ってもいい位のことです。ですから、弟子たちは「蛇のようにさとく、鳩のように素直」であれと言われています。この言葉は、人に対しては用心深く、神に対しては素直にというように解釈されることが多いですが、少し別の見方もできます。「さとく」と訳されているのは、「行動のもととなる物の見方」というような意味の言葉です。「蛇のように」を、あえて悪魔に結びつける必要はないでしょう。「悪賢くあれ」と言われるわけはないのですから。「素直」というのは「混じりけがない」という意味です。ここでも「鳩」にこだわることはありません。混じりけがないとは、実際問題としては、一見善良な行動の背後に、邪悪な意図が隠れていたりしないということでしょう。以上をまとめると、「内側に正しい視点を持ち、そこから正しい行動を起こすべきで、陰に見かけと違う悪意を持っていてはならない」となるでしょう。ある意味、当たり前のことでありながら、およそこの世では見かけるのが難しいものでもあります。
新型コロナの問題が大きくなってきた昨年には、「正しく恐れる」ということが言われていました。みくびってはならない。しかし、間違った恐れを持ってもいけないということです。このウイルスや感染症について、「正しい視点」を持ち、それに基づいて感染防止のために正しい行動をとるべきです。「悪意」云々というのは、感染防止という大義名分の陰で、経済的、政治的に不当な利益を追求するようなことです。
この原則が、宣教とどう関わるのかが問題です。迫害の中での「正しい視点」とは何でしょうか。それはまず、迫害は不可避だという認識です。(ただし、なぜそうなのかを理解する必要があります)。そして、そのような困難にもかかわらず、神が主権を持っておられるという視点です。そこから、真に恐れるべきは、目に見える回りの現実(要するに人と社会)ではなく、主権を持っておられるお方だということになります。それが、正しく恐れるということです。
これは、「人のことはどうでもいい。ただ信仰だけが大事なのだ」という独善のことではありません。「正しい視点」には、人間社会に対しての正しい洞察が含まれているからです。また、「まじりけのない」つまり「正しい動機」であることが要求されているからです。聖書は、悪のゆえに苦しむのは無意味だが、善のために苦しむことには価値があると言っています。社会に対して悪を行った結果苦しんでも、それは迫害ではなく当然のことです。また、「シャローム」を分かち合うためではなく、自己顕示欲を満たすために宣教するのは、宣教ではなく宣伝ビジネスです。ただ、このようなことは、他人が行っていれば目につきますが、自分自身のことは気が付きにくいものですから注意が必要です。
このような前提の上で、それでもなお迫害が避けられないのはなぜでしょうか。シャローム(平和と繁栄)を祈ることが拒絶されるのは不思議なことではあります。しかし、このシャロームは、「恵み」によるものであり、「妥協」「取引」「利潤追求」の結果得られるものとは違うという所がポイントです。恵みが支配すると、もともと有利な立場にいる人は、既得権益が侵害されると感じてしまいます。不利だった人は、とりあえずは喜ぶでしょうが、彼らも、恵みで与えられたものを自分の正当な権利だと解釈し、新たな既得権益が生まれてきます。世の中はその連続で、権力闘争、階級闘争、経済闘争、民族闘争、宗教闘争、世代間闘争、ジェンダー闘争など尽きることがありません。それが、シャロームの欠如です。シャロームは、恵みと同義語なのです。
神の主権とは、恵みの支配のことです。「神が支配しておられるなら、なぜ悪がはびこり、悲惨なことが続くのか」という根本的な問いに、すっきりした理屈で答えることはできません。つまり、世界の状況を観察することから神の主権を導き出すことは無理なのです。事実は逆で、そもそも「支配者」を神と呼び、世界が存在していることが、そもそも恵みであり、そこから離れようとすることが「罪」なのです。
―考察―
1.つい「恐れてしまう」ものがあるとすれば何ですか?
2.自分にとって何か「既得権益」がありますか?
3.「雀よりすぐれた者だ」と言われて、どう思いますか?