礼拝メッセージ要約

2021620

マタイ福音書101節から8

「宣教の初期」

 

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

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神の国を宣べ伝える働き(宣教)に弟子たちも参加することになりました。この「宣教」は、宣伝ではなく、神の働きが一歩一歩現れてくる、現在進行形の出来事であることを前回学びました。言い換えると、宣教とは、ひとつの決まった形があるのではなく、歴史的に展開していくものだということです。この「歴史的」な側面を理解することが、現代の私たちにとっての宣教を考える助けになります。今回は、まずその最も初期の姿を見ていきましょう。

 

最初期の宣教の第一の特徴は、バプテスマのヨハネによる宣教を受け継いだものだったことです。「天の御国が近づいた」というメッセージは、ヨハネのそれと同じものです。イエス様ご自身もヨハネからバプテスマを受けられましたし、何人かの弟子は、もともとヨハネの弟子でしたから、ある意味当然のことです。メッセージの言葉が同じであるということの他にも共通点があります。それは、今回の個所に続いて詳細に述べられているように、この宣教は、政治や宗教の権力者からは受け入れられず、苦難と迫害の中で進むことが避けられないということ。場合によっては、身内の者からさえ排斥される可能性があること。しかし、それにもかかわらず、一部には、宣教に理解を示し、受け入れる人々もいること。そして、状況がいずれであっても、恐れることなく宣べ伝え続けるべきであること、等です。ただし、そのような艱難や迫害は、当時に限らず、いつの時代でもあり得ることではあります。

 

もう一つの類似点は、当時にだけ当てはまるもので、それは、宣教の対象が同胞のユダヤ人だけだったという点です。イエス様ご自身の宣教も、異邦人を癒した例はあるものの、基本的にはイスラエル国内での出来事でした。

宣教が世界に向かって本格的に拡がるのは、後に聖霊が下るペンテコステ以降のこととなります。

このことには重要な意味があります。それは、宣教がユダヤのものであり、しかも世界のもの(普遍的なもの)でもあるということです。すなわち、三つの誤解を排除するということです。第一の誤解は、宣教は所詮ユダヤ人のものであり、世界に出て行ったとしても、それはユダヤ教を広めることであるという誤解です。つまり、異邦人をユダヤ人化しようとする「ユダヤ主義」の考えです。第二の誤解は、ユダヤの時代は終わり、今は異邦人の時代だから、ユダヤ人も異邦人のようにならなければならないという、「異邦人主義」の考えです。そして第三は、棲み分け主義、つまり、ユダヤ人にはユダヤ教があり、異邦人には「キリスト教」があるという考えです。

そのどれもが聖書の記述に合わないのですが、残念ながら歴史的には、そのような誤解が拡がり、そこから多くの悲劇も生まれたことは周知の事実です。

 

では、バプテスマのヨハネによる宣教との違いは何でしょうか。それは、弟子たちが「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出す」ように言われていることです。要するに、ヨハネとイエス様の違いが、そのまま弟子たちの違いにも反映されているわけです。ヨハネが「神の国が近づいた」というのは、その時の悪に支配された世界に神が介入し、悪は滅ぼされ、新しい時代が始まるという意味でした。いわゆる「終末」ということです。イエス様の地上での宣教にも、そのような「終末」の切迫感がありました。(パウロたちも初期はそうでした)。しかし、「終末」が物理的な世界の変動を超えて、より本質的な転換を意味していることは、初めは隠されていたものが、聖霊によって徐々に明らかになってきたのです。それは、「悪人が裁かれ、義人が救われる」終末から、「罪人が救われる」終末への質的な転換ということです。これは、十字架と復活によって初めて実現することになるのです。

 

癒しや悪霊追放の働きは、もちろん神の支配が力強く表れている徴(しるし)であり、バプテスマのヨハネの宣教とは一線を画すものですが、それ自体は、彼が昔のエリヤやエリシャのようなカリスマ的な(超自然的な能力をいただいた)預言者の一人であることを証明はしても、彼が真のメシヤであることの証明にはなりません。当時のユダヤでは、メシヤがイスラエルをローマの支配から解放することを期待していました。しかし、真の解放は、全人類が罪の支配から解放されることでなければなりません。神は天地の創造者であり、全人類の神である以上、当然のことです。ただ、その解放は歴史を通じて時間をかけて実現していくものであり、イエス様がユダヤに遣わされた以上、まずユダヤの中で解放の働きが始まったのもまた、当然でした。ですから、癒しと悪霊追放の働きは、そのような意味で神による解放の時が始まったことを知らせるものだったのです。

 

この解放は、いわゆる「恩赦」のように、権威者から囚われた者に対して「一方的」に与えられるものです。

この「一方的」ということがここでのポイントです。イエス様が弟子たちを送り出す時に、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました。ただで受けたとは一方的に受けたということです。つまり「恵み」です。神の国の働きは「恵み」の働きなのです。弟子たちが人々に解放の業をなすのは、完全に「恵み」として行われなければならないということです。つまり「ビジネス」ではないということです。

 

ただ、この点については注意が必要です。今回の聖書箇所の続きを読むと、ほとんど何も持たずに出かけ、行く先々で神が備えるものだけに頼り各地を巡りながら宣教しなさいと書かれています。それは「働く者が食べ物を与えられるのは当然だから」です。これを読むと、宣教によって対価が得られるというようにもとれます。定価を設定しなければよいとか、事前準備なしで、現地調達するべしなどと言う人もいます。しかし、それでは「ただで与える」ことになりません。ですから、これはあくまでも物やお金のやり取りではなく、「恵み」のことを語っていると解釈すべきでしょう。神の働きとは「恵み」であり、私たちも「恵み」を分かち合うために召されました。そして、「ただで与える」というのは、癒しや解放が「宣伝」、つまり何かを達成するための手段ではなく、それ自体が神の恵みの現れなのです。恵みですから、それは、身分、人種、性別、宗教などの垣根を越えて、どこまでも浸透し拡がっていきます。私たちも、そのただ中にいるのです。

 

―考察―

 

1.弟子の中で特に「十二人」が選ばれましたが、なぜ十二人なのでしょうか?

2.「十二人」の特徴は何でしょうか?

3.イエス様のことばを聞いた十二人は、どう思ったでしょうか?