礼拝メッセージ要約

2021613

マタイ福音書927節から38

「神の国の宣教」

 

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。

この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

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イエス様の癒しの働きが続いています。目の見えない人と口のきけない人が癒されました。この出来事の特徴を見ていきましょう。

目の見えない人の場合、これまでのケース同様、彼らの「信仰」が癒しのベースになっています。「信仰」については前回学びました。今回の注目点は、癒された人たちに対して、だれにも知られないようにと注意されたことです。このようなことは度々ありました。いわゆる「メシヤの秘密」と呼ばれている事態です。

イエス様は神の国の到来を告げる活動をされていたのにも拘わらず、ご自身のことを広く知らせようとはされなかったのです。つまり、イエス様の「宣教」は「宣伝」ではなかったということです。このことは、この箇所に続いて、イエス様が弟子たちを宣教の旅に派遣されることから、押さえておくことが重要です。なぜなら、それは今生きている私たちにとっての宣教にも関わることだからです。

 

イエス様は公然と大勢の人を癒しておられたのですから、癒しの事実そのものを秘密にすることは不可能だったでしょう。しかし、それを皆に言いふらすこと、つまり宣伝することは認められませんでした。宣伝すれば、より多くの人がイエス様のことを知り、その祝福にあずかるのだから、なぜ禁止されるのかわからない、というのが人情でしょう。これについては、色々な意見があります。癒しを宣伝されると、病人が殺到しすぎて困るからという常識的な考えや、メシヤであるイエス様の本分は赦しであって、癒しばかり求められても困るとからという考えもあります。しかし、イエス様は町や村を巡って、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直されたとあり、困っておられる様子はありません。因みに当時のユダヤ社会では、「罪の赦し」「病気の癒し」「悪霊追放」は厳密に区別されていたわけではなく、ひとまとまりのものでした。ですから、神の国の訪れとは、それらの束縛全体からの「解放」という形で現れたのです。(これは、「病気が治らないのは罪が赦されていないからだ」という意味ではありません。「罪赦された者」が完全な解放への途上にあるというように考えるべきです。というのは、目前の病気が癒されても、一度は死を通らなければならないからです)。

 

ここで注目すべきは、イエス様がなぜ人々を癒しておられたかということです。それは神の国を宣伝するためではなく、端的に彼らが「かわいそう」だったからです。有名な「良きサマリヤ人の話」で、サマリヤ人がユダヤ人を助けたのも、ただ倒れている人がかわいそうだったからでした。そして、その時できる最善を行うことによって、「隣人」となったのです。イエス様は、神の国やご自身を宣伝するためではなく、ただ、かわいそうな人たちを助けました。彼にできることは、私たちとは比較にならない大きなものですが、問題は事の大小ではなく、それが神の働きであるかどうかということです。神の働きとは、要するに「恵み」と「あわれみ」です。言い換えると、福祉は、ただ福祉を必要としている人がいるから行われるべきであって、政治的、社会的アピールや経済対策の手段ではないということです。(政治、経済が福祉の推進にとって重要な手段であるのは当然です。要は、手段と目的を取り違えないことです)。

 

口のきけない人が癒された時に、パリサイ人たち宗教家は、悪霊のかしらによって悪霊を追い出したのだといって非難しました。彼らにとって重要なのは、苦難の中にいた人が癒されたということよりも、メシヤの資格やら、悪霊の働きやらといった宗教問題でした。このことは、安息日での癒しを非難する話にもつながっていきます。

神の恵みを拒否するために宗教を利用するという、根本的な本末転倒が行われていたのです。これが、聖書がいつも提起している「律法主義」の問題です。本来、神のめぐみを表すはずの「律法」が独り歩きして、逆に神の恵みを拒んでしまうという問題のことです。ですから、ここでのパリサイ人の発言は、単にイエス様にイチャモンをつけているのではなく、恵みに対して律法の優位を主張しているものなのです。このように、宗教が神の働きを制限しようとする、つまり、神を宗教の枠に押し込めようとする「律法主義」は、単に当時のユダヤ社会だけの問題ではなく、現代でも最大の問題だと言っていいでしょう。(「宗教」を「主義」「イデオロギー」と言い換えてもいいでしょう)。

 

その上で、確認しておくことがあります。マルコ福音書の同様のシーンで、イエス様は「サタンがサタンを追い出すなど内部分裂したら立ち行かないだろう」と言われ、パリサイ人の間違いを指摘されています。悪霊が癒したりなどしない、全ての癒しは良いものだと言われているように思われます。そうすると、一部の人が「他の宗教の癒しは、悪霊の仕業だ」と主張するのは誤りだということになります。では、全ての癒しは神からのものだと単純に言って良いのでしょうか。答えはイエスでもありノーでもあります。それは、「癒し」の意味によります。癒しが、「心身及び社会的にも健全な、人間本来の姿になる」という意味なら、形はどうであれ、当然それは神の働きです。しかし、「何か特定の症状がなくなる」ということなら、それは必ずしも良いものとは限りません。これは、何も宗教を持ち出さなくでも当たり前の話です。ある悪い状態を解消する手段として、より悪いものを使うということは、いくらでもある話です。私たちは、「癒し」の中身を判別できるよう、神からの知恵をいただく必要があります。

 

以上のように、宣教は宣伝ではないこと、そして、宣教の中身である「癒し」は、本当の解放であることが明確にされた上で、イエス様は、その宣教にたずさわる働き手が少ないので、働き手を送ってくださるように祈れとおっしゃいました。宗教の宣伝をする要員を増やせというのではなく、神の恵みとあわれみの担い手が増えるようにという祈りです。この祈りを始めた弟子たちは、他のだれでもなく、まず自分たちが、その祈りの答えとなって、「宣教」の旅に出発することになります。

 

―考察―

1.目が見えるようになったり、口がきけるようになることで一番変わることは何でしょうか?

2.「羊飼いのない羊のように」とは、どのような例えでしょうか?

3.パリサイ人がイエス様のことを「悪霊憑き」と見做すのは何故でしょうか?