礼拝メッセージ要約

202166

マタイ福音書918節から26

「復活信仰」

 

イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」 イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方全体に広まった。

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今回の個所はふたつのエピソードが組み合わさっています。「長血の女」の癒しと、「死んだ娘」の蘇生です。

前者のテーマは「信仰による救い」であり、後者は「復活信仰」です。この二つは不可分であり、福音の根本をなすものです。

 

まず、「長血」とは、長期間の不正出血をもたらす婦人科系の病気のことです。不正でなくても出血は律法によって「不浄」とみなされますから、病気自体の苦しみだけでなく、社会的に隔離が強制される苦痛も味わっていたことになります。他の福音書によれば、様々な「医者」(当時の治療者や怪しげな祈祷師まで含む)にかかりながらよくならず、財産を使い果たしたとあります。来る日も来る日も出血が十二年も続き、苦しみながら社会から敬遠され隔離され、貧困のどん底にいるとしたのです。この女性が決死の覚悟でイエス様に近づき、その着物のふさにさわったのです。

 

ここで言う「着物のふさ」とは、モーセ律法に定められたもので、そのふさの先には青いひもがついていました(民数記1538節〜)。それは、律法を思い出させるためのものであり、当時は、敬虔さの象徴として、それを長くして見せびらかす人までいました(マタイ235節)。「穢れている」この女性が、あえて「ふさ」にさわったのは、イエス様の敬虔さに触れたら癒されると思ったのかもしれませんが、極めて大胆な行動であり、人混みに紛れてでなければ、到底不可能なことだったでしょう。

 

他の福音書によれば、この時イエス様の体から力が流れ出ていったとあります。それを感じたイエス様が、触った人を探していると、女性はイエス様の前にひれ伏し、癒されたことを告げました。イエス様の具体的な行動以前に、ただ触れただけで癒されたのです。この瞬間のことばが、「あなたの信仰があなたを治したのです」というものでした。印象的な出来事ですが、この箇所だけを切り取ると、誤った解釈をする危険があります。すなわち、人が発揮する「信仰の力」によって救われる(「直した」の原語は救ったの意)という誤解です。それでは、イエス様は救いのための「道具」に過ぎないことになってしまいます。「あなたの信仰」とは、人間の信念の力というよりも、その人ならではの「固有」の信仰形態と理解すべきでしょう。この女性の場合で言えば、「穢れていて、人に接触してはならない者が、聖いお方に触れることによって救われる」という、常識とは反対の信仰のことを指しています。これを使徒パウロは「何の働きもない者が、不敬虔な者を義としてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされる」とまとめています(ローマ45節)。すなわち神の絶対的な恵みに賭ける類の信仰のことです。この女性は、その典型ということになります。

 

さて、この女性の癒しに続いて、イエス様は娘を失ったばかりの会堂管理者の家に行きました。当時の人は、大声で泣いたり笛を鳴らしたりして、死を悼んでいました。しかしイエス様は、その死んだ娘は眠っているだけだと言い、少女の手をとると少女は起き上がったとあります。マルコ福音書では、この時のイエス様が「少女よ、起きなさい」と命じたと記録されています。そして少女が「起き上がった」という言葉は、「復活」という意味にも使われている言葉です。ただし、ここで少女が生き返ったのは、いわゆる「復活」とは異なります。生き返ってもやがて寿命は来ます。対して「復活」は永遠のいのちに移されることだからです。ですから、この「生き返り」は「癒し」の延長ということができるでしょう。

 

この出来事は、もちろん、神の憐みと神の子キリストの権威を表すものですが、「長血の女」との関連の中で理解されるべきです。長血の女は、自らイエス様に触れました。対して、この少女は自分からは何もできませんでした。文字通り死んでいたのですから。それでも少女は癒されました。パウロの言う、「何の働きもない者」です。自ら信じることすらできない者です。ただ神の絶対的な恵みが現れたのです。ただし、少女の親に「信仰」がありました。以前、百人隊長の信仰を通して、しもべが癒された出来事も読みました。「信仰を人の力とみなし、そのパワーによって他人が癒される」というように誤解される危険についても学びました。聖書の言う「信仰」は、そのような信仰一般ではなく、特殊な信仰なのです。それが、長血の女の場合、「不敬虔な者を義としてくださる神」を信じることでした。生き返った少女の場合は、その延長にある信仰です。

 

それが、「復活信仰」です。それは、単に死者が生き返る話ではなく、具体的な出来事に関しての信仰です。パウロは先程の「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じる」ことに続いて、アブラハムを引き合いにだして、その信仰の質について論じています。それは、アブラハムに奇跡的に子どもが与えられたことについて、「神には約束されたことを成就する力があることを」信じたのだということです。その「信仰」が彼の義とみなされたのです。それは私たちのための手本でもあり、私たちは、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる「信仰」が義とみなされるのです」(ローマ421節〜24節)。

 

ポイントはここです。「不敬虔な者を義とされるお方」は、「死者をよみがえらせるお方」のことです。すなわち神は「あり得ないことを一方的に(恵みにより)行うお方」だということです。しかしそれでは、神は無秩序の神、善悪の区別も生死の区別もないお方ということになってしまうのではないでしょうか。すると、信じるだけで救われるのなら、信じたうえで好き勝手に生きようなどという人も出てきてしまうことになってしまいます。

しかし福音はそうではありません。福音とは、「神はイエスを復活させることにより、不敬虔な者を義とされる」ということです。不敬虔な者がそのままで救われるのは、その中心にキリストの十字架と復活があるからです。

死んだ者を生き返らせることのできる「神の子」が罪人として十字架で死なれました。そのイエスを神はよみがえらせたことにより、罪人である私たちにも希望を与えてくださいました。

キリストの死と復活に私たちが結びつくなら、私たちは救われ、復活のいのちにあずかることができるのです。

 

―考察―

1. 今日、「イエス様の衣に触れる」とは、どのようなことを指しているでしょうか?

2. イエス様を「あざ笑った」人たちは、どのような気持ちだったでしょうか?

3.イエス様が死んだ少女を「眠っている」と言われたのは何故でしょうか?