礼拝メッセージ要約

2021530

マタイ福音書914節から17

「断食について」

 

するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

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断食は、古今東西広く行われている宗教的行為です。根本的な欲求を抑えることで、ある種の自己否定という修行、祈り、瞑想への集中の為の環境確保、貧しい者への共感を促す等のために行われます。個人で任意に行われることもあれば、特別な日時が神聖な時として宗教によって定められているものもあります。

モーセ律法では、断食は大贖罪日(レビ162934節)だけですが、捕囚後には、エルサレム包囲が開始された日、エルサレム陥落の日、神殿破壊)、ゲダリヤ暗殺の日の四回が、国民的な断食の日に加えられました。

(ゼカリヤ819節)。
このように、嘆きの日としての公共的な断食から進んで、捕囚後には、断食が神に喜ばれる業として重要視されるようになりました。例えば、パリサイ人は、モーセが律法を受けるためにシナイ山に登ったといわれる週の第五日(木曜日)と下山したといわれる第二日(月曜日)の週二回の断食を守り誇っていました(ルカ福音書1812節)。バプテスマのヨハネやその弟子たちも当然なんらかの断食をしていたと思われます。

 

このような背景がある中で、イエス様の弟子たちが断食をしなかったのは、周りから奇異に思われたことは当然です。それは、彼らの宗教的伝統や、翻っては律法に対する敬意の否定とさえ見なされたことでしょう。それに対してイエス様の答えは鮮烈なものです。花婿に付き添う友人は断食などしないというものです。

当時のユダヤの婚礼は数日から一週間にも及ぶ祝宴であって、その最中には断食は免除されていました。

祝宴と嘆きの日は相いれないものだからです。

 

ここでイエス様は、ご自身を花婿に、そして弟子たちを花婿の友人として描き、彼らは今、婚礼の宴の中にいると言っておられます。もちろん、この「婚礼」は象徴的なもので、ユダヤでは終末に実現する、神とその民との親しい交わりを表わしています。その「終末」が、すでにここに訪れている、すなわち、神ご自身がその民の中におられるということを宣言されているのです。言い換えると、メシヤを待望している時代から、メシヤが来られた時代に移っているのだということです。メシヤが来られ、共におられる以上、嘆きは去り、祝宴が始まりました。断食をしないことによって、それを端的に表現しているのです。

 

それでは、花婿が取り去られる日が来たら断食するというのは、どういうことでしょうか。「取り去られる日」というのはイエス様が十字架にかけられる日のことだと思われます。それこそ、嘆きの日であり、断食の時でしょう。しかし、イエス様は復活され、今も私たちと共におられます。ならば、私たちにも断食は不要なはずです。

本質的にはそのとおりです。すでに嘆きの時は過ぎ去りました。それにもかかわらず、キリスト教の歴史の中では、断食の習慣が維持されてきました。マタイ福音書でも、すでに読んだように、断食をする時は、人に知られないようにしなさいと書かれていて、断食そのものの存在は許容されています。では、新約時代に生きる私たちにとって断食とは何でしょうか。

 

それは、まず十字架の記念です。そもそも律法での断食は大贖罪日に行われるものでした。大贖罪日とは、イスラエルがすべての罪からきよめられる日です。とは言え、それは外形的、象徴的な贖い(あがない)であり、本体はキリストの十字架です。もし私たちが断食をするとすれば、それは、パンを裂くこと(聖餐)同様、キリストの死を覚え告げ知らせる行為です。しかし、死を覚えるとは言え、追悼し嘆くのではなく、復活し、今も共におられるお方が、十字架上で成し遂げられた事を告白するということです。

 

このように断食は象徴的な行為ですが、大切なのは象徴そのものよりも、象徴が指し示しているものです。

それは、キリストの十字架ですが、歴史上の出来事のことだけではありません。十字架が今、私たちの中で実現する出来事が、「断食」の本体です。十字架とは、死だけではなく死と復活を意味します。そもそも断食は喪に服することの表現です。

大切な人の死に際して身を戒め、悲しみを共有しますが、喪が明けると新しい生活が始まります。それは「再生」です。キリストの死が特別なのは、キリストの死を自分自身の死として受け入れる者には、単なる生活の「再生」だけではなく、復活を体験することが可能となることです。それは、キリストが復活し、今も生きておられるからです。ですから、今や「断食」とは、聖霊によってキリストと結び合わされ、キリストの死と復活に私たちもあずかることなのです。

 

このように、私たちがキリストと結び合わされるというのが「福音」です。それは、新しい布、新しいぶどう酒に例えられる「新しい」出来事であって、古いものに継ぎ合わせることは無理なのです。古いものとは、ここで言えば、クリスチャンは、いつ、何回、どのような断食をするのか、というような話です。あるいは、どのような修行をして自分の意識を高めるかというようなことです。このようなものは、宗教文化・伝統・戒律という形をとっています。人間の社会で秩序を維持するためには必要ですが、福音をそれに押し込むことはできません。無理やり押し込もうとすれば、それは古いものを破壊するだけになってしまいます。

 

では、福音にふさわしい「新しい布」「新しい皮袋」とは何でしょうか。この重要な問に対する具体的な答えは書かれていません。それは「新しい」ものが、生きているものであり、常に変化し成長するからです。それは、要するに「人」なのです。言い換えると、福音は宗教(キリスト教)の中ではなく、人の中にあるのです。宗教は福音を受けた人々の社会的な表現に過ぎません。要するに結果です。結果に過ぎない宗教の中に、原因である福音を押し込めようとするのは、まさに本末転倒です。よくある誤解ですが、古い皮袋を日本の伝統文化・宗教とし、新しい皮袋を外来のキリスト教の文化として、両者は相いれないと考える人がいます。反対に両者を融合しようとする人もいます。しかし、それは、二種類の古い皮袋をどうするかという話にすぎません。

福音は、キリストと人が結びつき、死と復活を共有するという事態であって、福音は宗教ではなく人に直接結びつくのです。その人は生きていて常に変化し、それぞれが多様な形で福音を表現していきます。

私たちは、このような意味で、「婚礼の祝宴」に招かれているのです。

 

―考察―

1. 「断食は体だけでなく心のダイエットである」という考えについてはどう思いますか?

2. 質問したヨハネの弟子たちは、どのような答えを予想していたでしょうか?

3.イエス様の答えを聞いたヨハネの弟子たちは、どう思ったでしょうか?