礼拝メッセージ要約

2021523

マタイ福音書99節から13

「罪人を招くお方」

 

イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

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イエス様は多くの人々に御国の福音を語り、癒しと解放のわざをされていましたが、そのように人々に対して「何かをする」こと以上に、人々をご自身のところに招いておられるのが大切なポイントです。

ここでは、取税人マタイという人が招かれています。

まず「取税人」とは何かについて見ていきましょう。

 

当時の税には、直接税(人頭税と土地税)と間接税(物品税や通行税など)の二種類がありました。(マタイ1725節にある税や貢とあるうち、貢の方が間接税です)。直接税は役人が直接取り立てていましたが、間接税は地域ごとに徴税権を最高額で入札した請負人が徴税しました(取税人の頭)。そして実際の取り立ては、その下請け人が行いました。彼らとしては、入札額をローマに収めればよいのですから、できるだけ多く取り立てて儲けて私腹を肥やそうとしていました。ですから彼らはユダヤ社会の中では盗賊や詐欺師と同列に見られていて、一般社会からのけ者にされていたのです。このような取税人と遊女は「罪人」の代表ですが、他にも賭博師、高利貸、羊飼いなどもリストにあげられていて、宗教家たちからは律法を知らない「地の民」と言われて蔑まれていました。

 

イエス様の周りにいた多くの人たちは、そのような「取税人や罪人」でした。現代風に言えば、限りなく黒に近いグレーの世界でうごめいている人たち、「あやしい人」「ヤバい人」であり、宗教家でなくても、「まともな人」なら近づかない人たちだったのです。そのような人たちを引きつけ、「取り巻き」のようにしている人がいたら、どう思うでしょうか。もしイエス様が人々を癒すことがなかったら、おそらく彼も単なる「あやしい人」と見做され、一般の人たちからは敬遠され、律法学者たちも関わろうとはしなかったと思われます。

現代には「教誨師」と呼ばれ、受刑者たちに向き合う宗教者がいます。尊い働きで社会的にも認知されていますが、イエス様とその周りの様子は、それとは随分異なっていて、かなり「過激」で「あやしい」ものと思われていたことでしょう。

 

パリサイ人がイエス様の弟子たちに、この理解しがたい状況について質問をしました。弟子たちがどのように答えたかは記されていません。たぶん答えられなかったのでしょう。代わりにイエス様本人が答えられました。

「わたしは正しい人ではなく罪人を招きに来た」と。ここで「正しい人」vs「罪人」というのは、この文脈で理解されなければなりません。神の前に正しい・間違っているというよりも、「宗教家や彼らに賛同する人たち」vs「世間からは、のけ者にされている、怪しい人たち」ということです。要するに、「あなたがたが罪人と呼んでいる彼らは、わたしが招いたからここにいるのだ」ということです。それは、神の招きは純粋に恵みであり、人の評価と関係がないということを表すためであり、「正しい人」と呼ばれている人が初めから排除されているわけではありません。(実際、多くの祭司や律法学者も後にイエス様の弟子となりました)。

 

そもそも神の前には義人はいないというのが大前提です。宗教家が義人であるわけではないのは当然ですが、「あやしい人」が招かれたからといって、彼らは実は善人だということなのでもありません。

このことは良く理解する必要があります。世間的にはこのような誤解があります。「宗教家たちは義人ぶっている偽善者であるから実は悪人であり、イエス様から退けられた。反対に「罪人」と呼ばれている人たちは、世間からそう見られているだけで、実はかわいそうな善人だから、イエス様から招かれ救われた」という誤解です。

このように誤解してしまうと、「イエス様は、義人に見える罪人は排除し、罪人に見える義人は救う」ということになってしまいます。いわゆる「弱者救済者」としてのイエス様像です。

 

もちろんイエス様は弱者をいたわってくださいますが、救うのは正真正銘の罪人であり、罪人と他人呼ばれるかわいそうな善人でもなく、あるいは、自分の罪を認める「謙虚な人」という善人でもありません。そうではなく、罪人は文字通り罪人なのです。それも、神の前に罪を犯している人であり、「ゆるされざる人」です。

そのような「本物の罪人」を招き救うために来られたのがイエス様です。

世間的には、「あの人は酷い人に見えたが、それでも救われたのは、きっと、どこかに良いところがあったのだろう」と考えますが、神の救いは、そのような人の善をまったく前提とはしません。それは、完全に神の恵みであることを忘れてはなりません。

 

神は「あわれみは好むが、いけにえは好まない」とあります。この「あわれみ」も、以上の前提で理解する必要があります。それは、人間的な「かわいそうに思う」ということ以上のことです。他の個所では「慈しみ」や「恵み」と訳されている言葉で、神のご性質の重要な部分を表しています。そして、その具体的な形が「招かれざる者を招き」「ゆるされざる者をゆるす」行為なのです。

一方「いけにえ」とは何でしょうか。旧約の律法でも細かい規定がありますが、一般的に言えば、神との関係を損ねてしまった人間が、それを修復するために捧げるもののことです。旧約の時代でも、ホセア書にあるように、神はいけにえよりもあわれみを好むと言われていますが、それは、いけにえが無意味だというよりも、そもそも、初めから神との関係を尊重することが求められているのです。そして、その関係とは、律法の規則にこだわり、規則の順守により自分を神に認めさせようとすることではなく、神ご自身のご性質、すなわち恵みと慈しみに触れ、その中で生きるということです。

 

神の恵みは全ての人に向けられているのであり、いわゆる「罪人」だけが対象なのではありません。しかし、もし「罪人」が救われることに納得がいかないとすれば、救いが恵みであることが分かっていないのです。そして、恵みによらないで救われようとするならば、どのような努力も失望に終わることでしょう。しかし、時は満ち、神の恵みはキリストの十字架によって完全に現れました。「罪人」を招いたキリストは、「罪人」の一人とされ死にましたが、その死は、真に罪の中で死んでいる全ての人のためであり、キリストは復活し、今や、「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」のです。

 

―考察―

1. イエス様の食卓に同席した「罪人」たちは、その食事をどう感じていたでしょうか?

2. 質問したパリサイ人たちは、どのような答えを予想していたでしょうか?

3.イエス様の答えを聞いたパリサイ人たちは、どう思ったでしょうか?