礼拝メッセージ要約

2021516

マタイ福音書91節から8

「罪をゆるす権威」

 

イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。 すると、彼は起きて家に帰った。 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。

 

「中風の人の癒し」と呼ばれることのある個所です。ただし、原語は単に麻痺した人とあるだけなので中風とは限りません。いずれにしても寝たきりの状態であったことは確かです。

他の福音書では、この出来事についてもう少し詳しく書かれています。それによると、イエス様がおられた家は人がいっぱいで中に入れなかったため、その病人をつれてきた人たちは、なんと屋根をはがして上からイエス様の前に彼を吊り下ろしたとあります。

当時のユダヤの屋根は簡易的なものだったとは言え、その大胆な行動は目を引きます。そのため、僕(しもべ)を癒していただいたローマの百人隊長の場合と同様、「その信仰が評価され、癒しの奇跡が起きた話」と読むこともできます。どちらも、癒された人本人以上に、その周囲の人の信仰が関与している点が注目されます。

 

このことは、あまりにも個人主義的な傾向が強く、どんなことでも自己責任論で片付けようとする現代社会にとって、ひとつの教訓ともなります。

現代社会とは、単純に言えば資本主義社会です。その中で、信仰も個人の所有する、いわば「資本」のようなものと考える傾向があります。そこでは、信仰という資本を多く持つものは、それを活用する(神と取引する)なら、さらに与えられ資本は増えていき、より大きな成果(いわゆる御業)を見ることができる、というような、信仰資本主義とでも呼べる考え方です。

一見この考え方を支持するような聖書の個所もあります。主人から預かったものを活かす良い僕(しもべ)の話や、「持てる者にはさらに与えられる」というような言葉があります。しかし、それに対して、朝から一日中働いた人も、最後に少しだけ働いた人も、同じ額の報酬を受けたという話もあります。聖書を部分的に読めばどちらともとれますが、信仰は神の恵みの現れであって、人の所有物ではなりという大前提があります。

 

信仰が資本主義に陥ると、少数の「信仰の偉人」と多くの「普通の人」がいるかのように錯覚します。しかし、福音の恵みの世界には、ただ、へりくだった僕(しもべ)がいるだけであり、皆兄弟姉妹です。

神の国では、自助共助公序の順序云々ではなく、神の恵みが人を支配するのであり、そこでは病人本人と周囲の人というような区別も意味はなくなります。このことは、いわゆる「とりなしの祈り」にも通じます。

他人のために祈る時も、他人も自分もひとまとまりで、イエス様に近づき、神の恵みの中に留まるのです。

 

さて、マタイ福音書の記事に戻ります。イエス様は、この病人に対して「罪は赦された」と宣言します。すると、それを見た律法学者たちは、イエス様が神をけがしていると思いました。他の福音書によれば、神の他に罪をゆるせるものはいないというのが理由です。そこでイエス様が彼らにつきつけた質問が「罪がゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらが易しいか」というものです。この問いは微妙です。正論から言えば、神だけが罪をゆるせるので、場合によっては人でも可能な癒しの方が易しいとなります。しかし、これでは、罪の赦しの権威を持っていることを示すために癒したということの意味がなくなります。他方、世間的に解釈して、「〜と言うのと」という部分に重点を置き、「言うだけなら、癒しのように目に見える証拠が要らない赦しのほうが易しい」という考えもあります。しかし、それでは結局、赦しの実態は分からないわけですから意味がありません。

 

実は、どちらが易しいかという質問には答えようがありません。それは、これが「人の子」の持つ権威の問題だからです。スピード違反を取り締まる警察官にとって大型トラックとバイクを止めるのはどちらが易しいかと言う時、腕力ではなく権威を使うのであれば、どちらでも同じことです。「人の子」に神の権威が与えられているのかどうかが問題なのですから、癒しが神の権威によるものだと認めれば、罪の赦しも認めることとなり、癒しも悪霊によるのだと主張するなら、赦しも認められないということとなります。実際、人々の中には、イエス様は悪霊のかしらによって悪霊を追い出しているのだと言うものもいました。結局、どんな奇跡が行われても、イエス様はどなたなのかという問いは最後まで残るのです。

 

幸い、この時の群衆は、人に「権威」を与えた神をあがめました。罪の赦しについて、どう捉えたのかまではわかりません。一方で、律法学者(宗教家)は、このような事態を危険視したことでしょう。彼らにとっては、神と人との間に律法という境があり、人が神の権威の世界に侵入するようなことを絶対に許さないことが最も重要でした。それは、ある意味では正しいことで、律法による「法治国家」でなければ、神の権威を語るカルト教祖の出現を止めることが出来なくなってしまいます。実際、当時のユダヤでも何人もの「偽メシヤ」が現れていました。結局の所、本物のメシヤと偽メシヤは、どう判別できるのかという問題に帰着します。

 

この時の律法学者が心でつぶやいたように、罪を赦す権威は神にあります。(もちろん、それは神に対する罪の話であって、対人間では互いに赦しあうことが求められています)。当時の一般的なメシヤ観でも、政治・社会の解放者ではあっても、罪を赦す者というイメージはあまりなかったと思われます。そこでイエス様は、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていると言われ、「人の子」は人々の考えるメシヤとは異なることを示されました。

「人の子」が来られたのは、ローマ占領軍を滅ぼし、政治家と宗教家が一体となって、「律法」の独断的な運用によって人々を統治する宗教国家を作るためではありませんでした。むしろ、罪びとを招き、人々を癒し解放するためであり、律法によって外から支配するのではなく、聖霊によって内から導かれる新しい民を創造するためでした。

 

「人の子」による罪の赦しは、神の権威によって行われます。つまり、それは神からの一方的な恵みだということです。癒しを求めて近づいてきた人たちに、イエス様が癒しよりもまず赦しを宣言されたのも、恵みの支配を現わすためでした。癒しはその象徴だったのです。ただし、この一方的な「宣言」が真実のものなのか、それとも空手形に過ぎないのかは、十字架と復活の時までは明らかにはなりませんでした。人々の罪のために十字架で死なれたお方を神は復活させたこと、これが罪の赦しの宣言であり、復活者キリストは今日も、この宣言(福音)のことばを私たちに語りかけておられるのです。

 

―考察―

1. イエス様は、「子よ」と呼びかけられました。どのようなニュアンスでしょうか?

2. イエス様が律法学者の心の中をご存知だったのはなぜでしょうか?

3.群衆が「恐ろしくなった」のはなぜでしょうか?