礼拝メッセージ要約

202159

マタイ福音書828節から34

「向こう岸での出来事」

 

「それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。『神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。』 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。 それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。『もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。』 イエスは彼らに『行け。』と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。 飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。 すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」

 

福音書には、イエス様が悪霊を追い出す話がたくさんあります。癒しと並んで、神の国(支配)が迫っていることの証明として記されています。ただ、この「悪霊追放」をどう解釈するかについては、様々な見方があります。

悪霊を「文字通り」非物質的な悪の「生命体」として捉え、それに優る「神の子」の力を示す出来事と読むのはもっともですが、それだけでは、私たちの日常であまり経験することがないので、この出来事の現象に注目し、なんらかの精神疾患と関連付けて、より「日常的な」病として見ることもできます。それも、個人の病という問題だけでなく、社会の病理としても捉えることがえきます。

 

この出来事のポイントは明確です。この人たちが、a狂暴化していた(自傷行為も含む) b社会から隔絶していた c本人の人格とは別人格が現れていた d 正気になったe 代償として動物を破滅させた(経済的損失を与えた)f ある程度の地域性があったということです。

確かにこれは、非常に重篤な精神疾患を思わせる状態でもあり、同時に、人と動物双方に関係する所や地域性がある点などは、ウイルス感染症さえも連想させます。(経済的損失との兼ね合いの問題までも)。まったくこの記事と同じではなくても、それぞれの要素は、私たちの周囲でも見ることができます。

 

まず、精神的事象としての特徴があります。自傷行為と人格の解離はセットです。現代では、「解離性同一性障害」の「憑依型」に分類される現象です。ただし、すべての憑依現象が解離性同一性障害なのではなく、社会から受け入れられず、本人にとって苦痛をもたらす場合だけが障害として認められ、そうでないものは、宗教・文化で許容された「憑依現象」と分類されます。また、この障害と狂暴性は直接関係ありませんが、このケースの場合、明らかに憑依している存在の影響が現れています。

 

ここで憑依しているのは、なぜかイエス様が神の子だと知っている存在です。(同様のケースは他でも見られます)。しかも、「その時ではないのに」と言って、暗に十字架のことまで知っているかの如くです。このことの解釈はいろいろですが、いずれにしても、悪霊は人間以上の何かを持っていることを暗示しています。要するに、単に個人の状況をその場で支配するだけでなく、歴史的・社会的な文脈の中で支配しているのです。

 

精神疾患は、一方では脳神経系統の問題であり、他方では、トラウマ等の環境からくる複合的なものとして見られます。すなわち、個人と社会両方によって起こる問題です。この「問題」を聖書では「罪」(的外れ)と呼んでいます。個人の問題とは、神との信頼関係が崩れ、いのちの木の実を食べられないこと(すなわち「死に支配された状態」)であり、社会の問題とは、「エデンの園」から締め出され、調和を失い、「のろいの下にある」状態のことです。この結果として、人は根本的な「同一性障害」(アイデンティティの異常)、いわば「霊的な同一性障害」の状態にあると言えます。

 

「同一性障害」は、以前は「多重人格」と呼ばれていました。一人の中に複数の人格が認められる状態と思われがちですが、むしろ、ひとつの人格としてまとまっていない、ひとつの人格もない状態と見るべきだと言われています。

聖書は、人がこの断片的な人格になっていると言っています。神から離れ自律的に行動できると思いあがった結果、何が良いことかを知る自分(神のかたちに似せて造られた存在)と、その良いことをしない自分(神に反している存在)が同居することになりました。聖書で「ふたごころ」と呼ばれる事態です。ですから、この「ふたごころ」とは、単に裏表のある心ということではなく、神の被造物としての真のアイデンティティを失い、断片的な存在となってしまった状態なのです。

 

そのような状態が悪化すると、このふたつの心はまるで分離しているかのようになり、ジキルとハイドのような分かりやすい形になることもありますが、より一般的には、「律法主義」の道を歩むことになります。律法主義とは、正しいと信じる道をひたすら歩む自分と、その陰にある強烈な自己義認の「むさぼり」を追求する自分が、もはや同居していることも自覚できない程に解離しつつも実際には同居していて、正しいことをしようとすればする程、罪に陥ってしまう状態のことです。そのような状態が、単に病気としてではなく「律法主義」と呼ばれるのは、人が自己義認の手段として律法を用いるからです。ですから、この「病」は個人的であると共に社会的なものなのです。(因みに、最近では「正義主義」という言葉もクローズアップされています)。

 

「解離性同一性障害」が、たんに人格が断片化しているだけでなく「憑依型」である場合というのは、断片のひとつが、その人の「外」から来たように見える状態です。「外」とは要するに社会的ということです。社会という「外」に存在し、しかも個人の内部を律するものは、聖書の文脈で見ると二つあります。一つは明確な「悪」(悪魔的とも呼べるもの)であり、もうひとつは「善」すなわち「律法」です。

この意味での「律法」とは、たんに「規則」「法律」のことではなく、実質的な力を持っている存在であり、しかもそれは「言葉」ですから、人格的な形で働きます。(もちろん、律法そのものが悪いのではなく、律法主義、すなわち、罪が律法を通して人を支配している状態が悪いのです)。極限まで行けば、(つまり「憑依現象」)、「神はこう言われる」とまで語る状態になりますが、それが「偽預言者」「偽メシヤ」にすぎないことは、それが暴力性を持っていることからわかります。その狂暴さは、単に武力や腕力に限らず、言葉、規則その他さまざまな形をとり、他者にも自分自身に対しても発揮されます。まさに、墓場に住んでいるのです。

 

このように、人格が断片化され、律法主義によって罪の奴隷となっている私たちを解放するためにイエス様は来られました。神のかたちに似せてつくられた者としてのアイデンティティを取り戻し、真の自由を与えてくださるためです。キリストの死と復活は、律法主義の終わりと真の自由の始まりであり、「墓場に住む者」を「いのち」に移してくださる出来事なのです。

 

―考察―

1. 自分自身の「人格」はどのようなものだと思いますか?

2. 単なる「悪霊追い出し」とイエス様のわざはどう違いますか?

3.人の内面を支配しようとする社会的な悪には、どのようなものがありますか?