礼拝メッセージ要約

202152

マタイ福音書823節から27

「嵐の中で」

 

「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。』イエスは言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』

 

イエス様に促され、向こう岸に渡るために舟に乗り込んだ弟子たちですが、湖は暴風に襲われ、舟は大波をかぶってしまいました。ところがイエス様は平然と眠っておられたのです。恐怖にかられた弟子たちは、イエス様を起こし、助けを求めました。

このような出来事はよくあります。神様から促されて一歩踏み出したものの、予想を超えた困難に直面することです。神様の導きだからといって、万事が順調にいくわけではありません。そんな時に、もちろん私たちは神に助けを求めます。しかし、神様が状況を変えてくださるように見えません。それどころか、イエス様は「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ」と言われるのです。

信仰が薄いのであって、信仰がないわけではありません。そもそも、イエス様と旅をすること自体が信仰なのですから。しかし、いくらイエス様と一緒だと言っても、こわいものは怖いのが人情です。

 

そんな私たちに対して、イエス様は「信仰を厚くしてから出直して来い」とは言われず、暴風を静めてくださいました。イエス様が寝ておられるのなら、私たちも一緒に寝ていられるのが本来の信仰であることを示されながらも、私たちのレベルまで降りてこられるのがイエス様です。ここに、イエス様の「教師」としての姿を見ることができます。

 

ここで注意することがあります。それは、嵐に巻き込まれた原因です。この弟子たちは、イエス様と共にいた時に嵐に会いました。イエス様の導きであるのなら、こわがる必要はありませんでした。

しかし、すべての嵐がそうであるとは限りません。信仰によるステップと、思い込みによる無謀が混同される危険が常にあります。神様の導きでもないのに、勝手に突き進んだあげく嵐に巻き込まれることもあります。その時に必要なのは、眠っていることではなく、目を覚まして間違いを正すことです。

 

導きと間違った思い込みを判別するには、聖書全体のメッセージと照らし合わせることが必要です。すなわち、聖句の一部を切り取るのではなく、聖書全体が指し示しているお方、キリストのメッセージと整合性がなければなりません。要するに、福音的かどうかということです。第二に、自分ひとりでなく、他者の意見にも耳を傾けることが必要です。もちろん神の導きは多数決で決まるわけではありません。しかし、キリストはキリストのからだである共同体を通して働かれることを忘れてはなりません。その他にも、注意すべき点はいろいろありますが、別の機会に学ぶことにしましょう。

 

今回の聖書箇所で大切なポイントは、弟子たちの姿のこと以上に、イエス様ご自身のことです。

暴風を静めたという出来事については、そんなことは不可能だという人や、いや、神様ならできるという人もいるでしょう。肝心なことは、神と人、そして自然界との関係についてのメッセージです。この三者はどう関わっているのでしょうか。

 

今日、人と自然との関わりについては、いわゆる環境問題という形で大きなテーマとなっています。人は自然の力の前では無力だと言いながらも、自然に働きかけ、自然を利用して生きています。しかし、自然に生かされていることを忘れ、自然を暴力的に支配しようとした結果、自然からしっぺ返しを受けているというのが現代の問題です。聖書やキリスト教の世界観では人が自然を支配するべきと考えているので時代にそぐわないと言われることがあります。今回のイエス様の行動も、一見、自然を支配することを良しとしているようにも見えます。しかし、本当にそうでしょうか。「風や湖をしかりつけた」とは、どういうことなのでしょうか。

 

「しかりつけた」というと感情的な感じがしますが、この言葉は、「評価」「警告」「是正」というような意味です。

いずれにせよ、イエス様が自然に対して指示・命令をされたのは、ご自身のためではなく、あくまでも弟子たちが怖がっていたからです。イエス様自身にとっては、暴風は脅威ではなく、いわば自然と共存しておられたのですから。イエス様にとっては、野の花も空の鳥も神の意志を教えていました。私たちも風光明媚なものに神の業を見るかもしれません。しかし、イエス様の場合は、すべてのものを通して、神の御心を知ることができるのです。その御心とは、神の国の訪れです。使徒パウロは、被造物全体が私たちと共に産みの苦しみをしていると書いています。私たちは自然と一体であり、その中で良き管理者であることが求められているのです。

 

嵐の湖の上で、弟子たちはイエス様のようには、眠れるほど落ち着いていることはできませんでした。そこでイエス様は嵐を静めてくださいました。私たちは、究極的にはイエス様と同じ状態(すなわち、父なる神への全幅の信頼のもとで安らいでいる状態)に変えられることが御心です。そして、それは、もちろん私たちが自力で達成することではなく、神が聖霊によってなされることです。私たちはその途上にいます。そして、イエス様は薄い信仰の私たちと共におられます。私たちは自分の信仰が薄いことを痛感する時に、改めてイエス様に支えられていることを、より深く知るのです。

 

嵐を静めたイエス様を目の当たりにした弟子たちは、「この方は、どういう方なのだろう」と言いました。「どうやって嵐が静まったのか」ではなく、「イエス様とはだれなのか?」という問いこそが、この福音書、そしてテーマです。そして、この問いは今後さまざまな場で問われていくことになります。この問いに対して、人はそれぞれ自分なりの答えを見つけていきます。「教師」「メシヤ」「預言者」「王」など様々な称号をつけながら、その意味についても更に多様なイメージを持つようになります。それは今日でも同様であり、決まりきった「正解」を答えるよりも大切なことではあります。

 

しかしながら、そのような数々の「答え」の中で、聖書には明確なメッセージがあります。それは言うまでもなく「十字架のキリスト」です。嵐でも平然としておられ、人々を癒し解放してこられたお方が十字架にかけられているのを見て、この方はどういう方なのだろうという最終的な問いが発せられました。そして、それは今日もあらゆる所で問われているのです。

この問いに対して、定型文を引用するのではなく、自分自身の答えとして、「神の子、キリストです」と告白するのかどうか、それが「嵐のような世界」の中におかれている私たちに問われていることなのです。

 

―考察―

1. どのような「嵐」を経験していますか?

2. 仮に気象を変えられるような人が現れたら、どう思いますか?

3.十字架上の死刑囚を「神の子」と呼べる「飛躍」は、どうして可能なのでしょうか?