礼拝メッセージ要約

2021425

マタイ福音書818節から27

「向こう岸へ」

 

さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

 

イエス様は、私たちと繋がり、私たちの罪や病を背負うことによって、私たちの罪を赦し、癒してくださいます。

イエス様の名を呼び求める者とイエス様とは一体になっているのです。ですから、イエス様のおられる所に私たちもいるのは当然のことです。そして、生きて働いておられるイエス様は、同じ場所にじっとしておられるのではなく、常に前に進んでおられます。いわば、イエス様は今日も旅をしておられるのです。

そのイエス様と繋がっている私たちも、当然、旅人とされています。(ペテロ211節参照)

今回の個所は、地上のイエス様が、向こう岸に渡ることを決められた時のことです。

 

まず、ひとりの律法学者がイエス様に近寄り、どこにでもついて行くと言いました。どうして言ったのかはわかりません。多くの人が癒されるのを見て、さらに大きな神のわざを見たいと思ったのかもしれません。その学者に対してイエス様は、「人の子には枕する所もない」と言われました。この「人の子」とは、ご自身のことを指しています。「私について来ても、落ち着ける居場所などありません。それでもいいですか?」というニュアンスでしょう。この律法学者がどう決断したのかは書いてありませんが、イエス様についていった人たちについては具体的に書いてあることが多いので、おそらく諦めたのでしょう。

 

どんな信仰であっても、人は何らかの「ご利益」「見返り」「祝福」を期待するものです。聖書でも、神に近づく者は、神を求める者には神が報いてくださることを信じなければならないと書いてあります。(へブル116節)

問題は、その報いがどんなものなのかということです。

それは、財産や名誉などの「自分が所有する」ものなのか、あるいは、団体、宗教、国家などの「自分が所属する所」なのか、いずれにせよ、何か具体的に目に見える「固定した」ものであることが普通です。

しかし、「旅人」であるというのは、それらのものが無いということを意味しています。

所有物はあったとしても最小限のものです。(現代ではクレジットカード1枚あれば他に何もいらないという人もいるかもしれませんが、もちろん、そのような話をしているのではありません)。

ポイントは、所有物の質や量というよりも、それらの物は永続しないということです。所有物にこだわっていると旅ができないのです。

 

イエス様との旅も同様です。神は私たちの必要に応じて、様々なものを備えてくださいます。しかし、それらのものはすべて流動的なものであることを忘れてはなりません。イエス様は、旅先で常に野宿をされていたのではなく、人々からもてなしを受けたこともありました。(単なる「清貧」の美徳を説いているのでもありません)。

しかし、それでもイエス様には「枕する所」はありませんでした。つまり、この地上には永遠の住まいはなかったのです。すべての場所は一時的であり、常に旅を続けられたのです。

 

イエス様と共に旅をする私たちも同様です。もちろん、それは、私たちが常に引っ越しを続けなければならないという意味ではありません。宣教師のように、世界中を飛び回ることだけが「旅」なのではなく、旅人として、永続しないものに依存しない生き方をすることが求められているからです。

ですから、神からの報いとは、何かの「もの」が与えられることではなく、旅ができるということそのものなのです。

 

私たちは、所有物と共に、自分が所属するグループにも依存してしまいがちです。自分が何も持っていない場合でも、自分の所属先が確かなら安心できるということもあります。しかし、旅人は、何か固定した所属先というものがありません。いわば自由人なのです。イエス様は、人種としてはユダヤ人ですが、ご自身を「人の子」と呼ばれる時に、ダニエル書のいわゆる「人の子」と呼ばれるメシアを暗示すると共に、単に「人の子は人」という意味で、ひとりの「人間」(もちろん、神の子としての人間)をも意味していました。

要するに、私たちは、日本人とかキリスト教徒とか学者とか学生とか男とか女である前に、ひとりの「人」なのです。(それが、いわゆる「人格」と呼ばれているものです。そのレッテル(属性)如何にかかわらず、人は人だということです)。

 

これは、当たり前のようでありながら、現実には恐ろしいほどに忘れられていることです。というのは、私たちは自分も他人も、何かのレッテルを貼る仕方で理解しようとするからです。実際、何のレッテルもない、何の一員なのかもわからない、いわば究極の「住所不定無職」のような人を、私たちはどう理解したらよいのでしょうか。ただ「人」ということ以外に何も言いようもない「人」とは何でしょう。しかし、本来、人とはそういうものです。その「人」自体は、あらゆるレッテルを超えて、ただ端的に存在しています。それは神の被造物であって、人の造ったものではないからです。要するに、人の本来の所属先は神であって、地上のいかなるものも、あくまで暫定的な所属先であるに過ぎません。「私たちの国籍は天にあるのです。」(ピリピ320節)

 

「死人に死人を葬らせよ」という、一見、無謀にも思える言葉も、イエス様に繋がる者の所属先をはっきりと語っているものです。(これを、家を飛び出し、社会に背を向けて、カルト教団に身を捧げるというような意味にとってはなりません。どんな教団も天ではなく、教団に所属することで安心しようとすること自体が、イエス様のことばに反しているのです)。

 

それでは、地上の何物にも所属しない私たちは、地上の一切の事柄と無関係の、無責任で役立たずの存在なのでしょうか。もちろんそうではありません。私たちは地上で旅をしていますが、観光客として見物しているわけではありません。私たちはイエス様と共に旅をしています。イエス様は、すべてのものから自由でありながら、すべてのものの僕(しもべ)となられました。それは、神の国を地上にもたらすためです。すなわち、敵意にあふれ、あらゆる点で的が外れている地上に、神による赦しと和解をもたらすために、まず十字架によってその道を切り開き、今日も地上のあらゆる所を旅しておられるのです。

和解をもたらす者は、敵対する当事者からは自由でなければなりません。私たちが自由人とされたのは、神の国の住人として、イエス様と共に歩み、和解の器となるためなのです。

 

―考察―

1. 普通の旅とイエス様との旅とを比較して、似ている点と異なる点はどんなところでしょう?

2. 「死人が死人を葬る」とは、どのような意味でしょう?

3.「向こう岸に渡る」ような経験はありますか?