礼拝メッセージ要約
2021年4月18日
マタイ福音書8章1節から17節
「病を背負われた主」
「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
この章から、イエス様は、ご自身の行動によって神の国を示されます。
8章の前半では、まず3つの癒しの出来事が詳しく語られ、さらに、多くの人々が癒されたと書かれています。そして、これらの出来事の解説として、イザヤの預言が記されています。イエス様が人々を癒したのは、イエス様が私たちの病を背負ったことによるのだということです。
まず3つの癒しの出来事を簡単に見ましょう。最初は、いわゆる「らい病人」の癒しです。従来「らい病」と訳されていた単語は、旧約のヘブル語では「ツァーラト」、そのギリシャ語訳では「レプラ」ですが、これは医学的にみて「らい病」(ハンセン病)のことではなく、正体不明の皮膚疾患や衣服・皮製品にも発生するカビのような現象を指しています。(「レプラ」がハンセン病を意味するようになったのは中世のころだと言われています)。
そこで現在の訳では、「らい病」という訳は使わず、「ツァーラト」「ツァラアト」等と音訳されています。
いずれにしても、この「ツァーラト」状態にある人は、厳しい隔離生活を強いられ、社会から拒絶されていました。ですから、この出来事は、単にひとりの人の病気が治ったというだけではなく、社会復帰の出来事でもありました。
この癒しが起こったのは、イエス様が手を伸ばし彼にさわったからでした。触れてはいけない者に触れて癒すというのがイエス様のやり方です。一般的に言えば、通常は穢れたものに触れると穢れがうつる(ウイルスのように)のですが、イエス様の場合は、接触によって穢れではなく、聖さが「うつる」(すなわち、穢れた人がきよめられる)ということです。
この出来事は、もちろん、差別や偏見の克服のメッセージと捉えることもできますが、より重要なポイントは、「穢れ」と「聖さ」の区別・分離と、その克服ということです。というのは、ツァーラト状態の人の隔離・分離は、偏見によるのではなく律法によるものだったのであり、今日の「感染者の隔離」にもまさって、厳密に行われる必要がありました。ですから、イエス様も、社会に向かって「ツァーラト」の人も、そのまま受け入れなさいと言われたのではなく、彼をまず癒し、祭司から「非ツァーラト」の認定をもらうように導いたのです。
ですから、この出来事は、イエス様に触れられることによって、通常とは逆に、聖さが穢れに打ち勝って癒されるという所に本質があります。
このことは、2番目の「百人隊長のしもべの癒し」でも言えます。
百人隊長とは、イスラエルを支配していたローマ占領軍の隊長で、要は「非ユダヤ」の異邦人です。現代の人権思想からは受け入れがたいことですが、ユダヤ人から見れば律法を持たない異邦人は穢れており、交わってはならない存在でした。ここでもイエス様は、ユダヤ人と異邦人の区別を超えて、癒しを行いました。ツァーラトの場合は、ユダヤ社会内部の断絶でしたが、今度はユダヤ社会と外部との断絶が乗り越えられています。これも、
単に外国人への偏見の克服と捉えるのではなく、律法によってユダヤ人と異邦人が厳密に区別されているという前提がまずあり、それにも関わらずイエス様が「越境して」癒されたということがポイントです。
また、この時は、手で触れることなく、言葉で「遠隔地」治療を行ったということも注目されますが、癒しの方法論は興味深いものではあってもテーマからは外れてしまいます。むしろ、イエス様が、この隊長の「信仰」に着目されたこと、そして、ユダヤ人よりも異邦人が天の御国に招かれているという「逆説」をイエス様が語られていることに注目しましょう。「ユダヤ人と異邦人の壁が取り払われ、ただキリスト信仰のみによって、神の国に入ることができる」という、福音が示されているのです。
最後は、ペテロのしゅうとめの癒しです。これは「女性の癒し」です。イエス様は、もちろん、この他にも多くの女性を癒されました。旧約の預言者にも、女性に対して奇跡を行っている人はあります。ですから、これがイエス様だけの業というわけではありません。それでも、イエス様が女性に対して、分け隔てなく接し、初期のクリスチャン共同体の中で、飛躍的に女性の立場が向上したのは事実です。しかもそれは、現代の男女同権というように、人が社会に対して持っている権利の平等というアプローチとは異なったものから出てきました。
使徒パウロはガラテヤ書3章で、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」と書いています。
人種や男女の区別がないというのではなく、皆が「キリストのからだ」という、霊的な「生命体」の一部だというのがパウロの説明です。一部だと言っても、キリストという入れ物の中に、いろいろな人が詰まってというというのではありません。パウロの表現では、「あなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」。
現代的に例えれば、ひとりひとりは細胞で、すべて同じDNAを持っているけれども、細胞ごとにその発現が異なり、結果として異なる機能を持った細胞として存在しているというようなことです。(あくまで例えです)。
免疫細胞が暴走して、同じ人の他細胞を攻撃してしまう自己免疫疾患がありますが、キリストのからだの一部である他者を攻撃するとしたら、それは重大な疾患です。逆に、健全な体は傷ついた部分を修復することができるのであり、キリストによる癒しも、そのようなものなのです。
イエス様の癒しは、この3例で終わることなく、さらに多くの人々が癒されました。それは、イザヤの預言にあるとおり、イエス様が私たちの病を背負った結果でした。これは、健康な医師が、防護服に身を包んで自分を守りつつ、患者の治療にあたるというものとは異なります。イエス様はご自身の身に私たちの病を担うのですから、これも現代風に言えば、わざと私たちから感染するようなものです。しかし、イエス様の場合は感染しても、ご自身の健康さ(聖さ)によって克服するばかりか、イエス様につながる病人も癒してしまうのです。
ただ、この例えはあまり正確ではありません。というのは、病気が象徴している罪については事情が異なるからです。というのは、私たちは、たまたま罪に感染した病人なのではなく、私たち自身が罪人、要は、悪質なウイルスのような存在だからです。「私」というウイルスが、他のからだに取り付いて侵入し、細胞を破壊しつつ自己増殖しているのです。この「ウイルス」に打ち勝つのは「抗体」や「免疫細胞」が働く「からだ」です。「キリストのからだ」はそのような「からだ」であり、ウイルスのような私たちがそこに侵入すると、キリストのからだを破壊するかわりに、逆に包みこまれます。しかも、私たちは「破壊される」だけでなく、キリストのからだの一部としての「新しい細胞」へと作り変えられるのです。
―考察―
1. どのような「癒し」を必要としていますか?
2. 「百人隊長」の態度から何を学ぶことができるでしょう?
3.望むような「目に見える癒し」が起こらない時、どうしたら良いでしょう?