礼拝メッセージ要約

2021411

マタイ福音書724節から29

「山上の垂訓㉔」

 

『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。』

 

山上の垂訓のまとめとなる箇所です。「わたしのこれらのことば」とは、ここでは「山上の垂訓」でイエス様が語られた内容と理解してよいでしょう。

「イエス様のことばを聞いただけの人」と「聞いて行う人」が対照されています。

「聞くだけの人」の意味を理解するのは容易でしょう。現代で言えば、テレビやネット動画を見ているだけの人、つまり、情報を受け取るだけの人のことです。

では「聞いて行う」とは何のことでしょうか。これについては注意深く考える必要があります。

 

ユダヤの律法は、元来「道」であり、神と共に歩む生き方そのものを意味していました。しかし、それが次第に「法律・規則」という面が強くなり、律法のことばが「命令」として受け取られ、やがて機械的に守るべき重荷とまで変質してしまいました。これがいわゆる「律法主義」であり、神の道を歩むという生きたものから、まるで律法の監視社会での生活のようになってしまったのです。(もちろんユダヤ人が皆そうだったということではありません。システムとしてそうだったということです。誤解のないように)。

そのような律法主義のもとでは、「イエス様のことばを行う」とは、イエス様が作った新しい規則を守るという意味に理解されてしまいます。例えば、「右の頬を打たれたら左も向けよ」という新しい規則が与えられたので、絶対に自己防衛をしないのが「イエス様のことばを行う」ことなのだ、というように。

 

しかし、そのような法律制度を作ることが不可能であることは明らかです。それは難しいというだけでなく、正しくもありません。聖書では、社会の正義と公正さは基本的な価値であり、弱者は守られなければならないのですから。そのような律法主義ではなく、神の道とは、恨みの感情を克服し、赦しと和解に向けて、冷静に神の導きを求め、忍耐を持って歩み続けれ「生き方」のことです。ですから、イエス様のことばを聞いて行うというのは、神の道を歩むことを意味しています。ただし、山上の垂訓からわかることは、神の道は「歩む」というより、

実質的には「歩むように導かれる」、すなわち神の国(支配)の中での生活を意味しているということです。

 

言い換えると、聞くだけの人とは、情報を仕入れるだけの人のことであり、行う人というのは、情報を実際に活かすことが許されている人ということになります。「活かす」のではなく「活かすことが許される」というのは、イエス様の情報が、「イエス様についての情報」」ではなく、生きておられるイエス様が「生で」(ライブで)発信しておられる情報だからです。ですから、それは単に検索して発見できるものではなく、いわゆる「友達」となってアクセスが許される状態でなければ得ることさえできず、まして活かすことも不可能だからです。

 

実際、「友達」関係で得る情報こそが、自分も当事者として関わることができるものです。そして、その活かし方は、マニュアルで決まった方法ではなく、友達としての関係で変化してきます。それは人により、また時と場合により異なりますから、規則としての「律法」にしばられるものではありません。

まとめると、「聞くだけの人」とは、イエス様についての情報だけを得ようとする人のことであり、「行う人」とは、イエス様と「友だち」となることが許され、「友だち」として関わる人ということになります。イエス様は、私たちが彼と友だちとなるように招いておられるのです。

 

砂の上の家と岩の上の家の比較は、聞くだけの「土台がもろい人」と、聞いて行う「土台がしっかりとした人」との対比を例えているわけですが、人生の土台とは何かという問いとして少し広げて考えてみましょう。

「自分は何を土台として生活しているのか」という問いは、土台と思われていたものが崩れてしまった時に切実になることが多いです。一般的に、何かの「もの」が土台の場合は失われやすいですから、人はしばしば保険を掛けます。もちろん、そのような保険さえ役に立たないような危機というものもありますから、むしろ、「もの」よりも、資格や能力を土台にしようと考える人もいます。しかし、それさえも頼りにならない事態に備えて、人脈が一番大切だということも言えるでしょう。「もの」「能力」「人脈」が、一般的に人生の土台と考えられるわけです。しかし、それらのものは大切ではあっても、絶対に確かなものとはいえません。なぜなら、それらは永続するものではないからです。「砂」は「移ろいゆくもの」の象徴なのです。

 

それに対して、「岩」は永続するものの象徴です。新約聖書で「岩」は「イエス様」のこと、あるいは「イエスキリストとのつながり」を表わしています。いわゆる「人脈」とも言えますが、一般の人脈とは異なり、移ろいゆくことなく永続するものです。なぜなら、イエス様は死者の中から復活したお方であり、私たちに永遠のいのちを与えてくださるからです。岩はイエス様なのは、イエス様が復活者であるからであり、岩が同時に私たちとイエス様とのつながりをも表しているのは、イエス様とのつながりによって私たちに永遠のいのちが与えられているからです。この「岩」が土台であるならば、その上に建てられるものは頑丈であり、嵐にも耐え、永続することができるのです。

 

最後に、これまでイエス様のことばを聞いた群衆が驚いたという部分です。「驚いた」というのは「唖然とした」とか「ショックを受けた」というレベルの強い驚きを表わしています。驚いたのは、イエス様の教え方がパリサイ人や律法学者のようではなかったからだとあります。彼らの教え方とは、「モーセはこう語った」と言いつつ、律法に書かれていることばを解釈し、適用していくものでした。要は、「聖書にはこう書いてあるからこうしなさい」ということです。それに対して、イエス様は「わたしはこう言う」とおっしゃったのですから、驚くのは当然です。しかしそれは、自分の考えを聖書よりも上に置く、神を冒涜する行為にはならないでしょうか? イエス様だけは許されるという根拠は何なのでしょうか? また反対に、今日、クリスチャンが「聖書にはこう書いてあるからこうしなさい」と言うとき、パリサイ人と何が違うのでしょうか?

 

鍵はすべて「復活」にあります。イエス様が権威ある者として語っておられるというのは、「復活者」として語っておられるという意味です。そして、その復活者が私たちの存在の根底であるからこそ、私たちは、そのことばを当事者として聞き、関わっていくのです。

 

―考察―

1. あなたにとって「土台」とは、具体的にどんなものでしょう?

2. 律法主義に陥ってしまうことはありませんか?

3.外側からの権威と内側からの権威はどう異なるでしょう?