礼拝メッセージ要約
2021年4月4日
ガラテヤ2章20節 コロサイ1章27節
「復活の福音」
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
今日は復活祭(イースター)です。キリスト教の中で最も重要な祝日と言われてきます。そもそもキリストの復活から全てが始まった以上、それは当然のことです。ただし、これを宗教の記念日にように捉えると、事の本質が見えなくなります。大切なのは日付ではなく、「人」だからです。
すなわち、キリストの福音に触れ、その福音に生かされている人々、いわゆるクリスチャンの問題なのです。
今日では「クリスチャン」という言葉は様々なことを指しますが、そもそもは「キリストの復活の証人」という
意味でした。ただしそれは、死んだキリストが生き返ったという出来事(例えば空になった墓の事件)を聞いて、それを「うわさ話」のように人に伝える人という意味ではありません。あるいは、そのような「お話」を保持している宗教団体の一員になることでもありません。そうではなく、十字架で確かに死んだイエス様が今も生きていると、「自分自身のこととして」証言する人々を意味します。
ですから、クリスチャンというのは、まずは「変な人」とみなされて当然なのです。事実、使徒パウロを始め初代のクリスチャンの多くは、そのような者として非難されたり弾圧されたりしました。
それほど重要な「復活」ですが、たんに「ヤバい」話で終わらないために、現代において復活の証人とは何を意味するのかを確認する必要があります。
まず、それは何ではないかを見ます。
第一にそれは、昔の出来事の証人ではありません。「起源30年頃の春に、イエス様が納められた墓が翌々日には空になっていた」という出来事の証人のことではありません。その様なことを「自分事」として証言できるのは、当時そこにいた人だけであって私たちには不可能です。もちろん、当時の証人は命がけで証言しており、具体的にそれを反駁することができなかった(イエス様の遺体を発見することができなかった)ことから、その証言の信憑性はかなり高いと推測することはできます。しかし、推測はあくまで推測であり「証言」とは言えません。当時の証人を信じることと、イエス様を信じることは別なのです。
第二にそれは、イエス様の言行が私たちの記憶に刻まれていて、それが私たちの生き方に影響を与えているという意味ではありません。つまり、影響力が絶大な偉人ということではありません。聖書に書かれたイエス様の言動が影響を与えるということはありますが、それだけなら、わざわざ「復活」と言う必要はありません。
また、いわゆる偉人でなくても、身近な人がなくなった後も、私たちの心の中に「生き続けている」と感じられることもありますが、それも違います。私たちには、「生前の」イエス様の記憶はないのですから。
それでは復活とは何なのでしょうか。鍵はイエスキリストというお名前にあります。「イエス」はもちろん固有名詞であり、あの十字架で処刑されたユダヤ人を指します。私たちは会ったことはなく、ただ伝聞として知るだけです。一方「キリスト」は、元来はユダヤ教でのメシアのことですが、福音においてはそれ以上のことを意味します。
伝統的な意味でのメシアは、今の時代の終わりに現れて、イスラエルを異邦人の支配から解放し、正義と平和を確立する究極の支配者を意味しています。その支配者の実像については様々なものが予想されていますが、いずれにしても、それは「外から」訪れ、「外から」イスラエルや諸国を統治する存在です。
しかし、使徒パウロが語っているキリストは、コロサイ書に書かれているように「内なるキリスト」です(外からのキリストを否定しているわけではありませんが)。そして、その内なるキリストは奥義(以前は隠れていたもの)であると述べています。
この「内なるキリスト」というのは、最初に述べたように「キリストの言動の記憶や証言内容を心に留めておく」ということではありません。そうではなく、実際に生きて働いておられるキリストのことを指します。
そして、キリストが内におられるというのは、何かキリストという人物が自分に憑依したということではありません。そうではなく、ガラテヤ書にあるように、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
「私が生きているのではない」とはどういうことでしょうか。もちろん、物理的には「私は生きています」が、それは神に創造された本来あるべき「私」ではありません。人はみな罪人(的外れ)ということです。このような、非本来的な「私」を、使徒パウロは「肉」、「罪のからだ」と呼んでいます。(肉体のことではありません)。
そのような「肉」が支配している限り、私たちは神の被造物としてのありかたにたどり着けません。
ところが、私たちは生まれつき「肉」を根拠として存在していますから、自分自身でそこから脱却することはできないのです。(肉が肉を否定しても肉のままということです。)
しかし、福音(良い知らせ)があります。キリストが十字架で処刑された時に、神は私たちの「肉」をも処分されたという知らせです。これは「知らせ」ではありますが、だれでも自分のこととしてあずかることができます。
言い換えると、生まれつきの「本来の姿から離れた私」が否定されたその所に、それを実現したキリストがおられるということです。ですから、もはや「自分が自分自身の根拠」となるのではありません。いわゆる「自信」はもう成立しないのです。その代わり、今やキリストが自分自身の根拠となっています。自信ではなく「他信」です。しかも、その「他」は、どこか遠いところにおられるのではなく、まさに自分の内におられ、自分自身を成立させているのです。
この「内なるキリスト」が、歴史上の「イエス」という十字架につけられたお方と不可分であるということ、それが、イエスキリストというお名前が表していることです。そして、その普遍的なキリストの現実に入るために必要なことは、ただ「イエスの御名」を呼ぶだけであるというのが、良い知らせ(福音)なのです。
―考察―
1. 周囲の人々は、復活についてどのようなイメージを持っていると思いますか?
2. 「霊媒」(あの世の人びととの交流)と、復活のキリストとの違いは何でしょうか?
3.どのような時に「イエスの御名」を呼び求めますか?