礼拝メッセージ要約

2021328

マタイ福音書713節から23

「山上の垂訓㉓」

 

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやってくるが、うちは貪欲な狼です。
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

「山上の垂訓」のまとめとなる箇所です。いわゆる「狭き門」の話、偽預言者についての教え、そして「岩の上の家」の例えです。すべては、「キリストは律法を完成するために来られた」というマタイ福音書のテーマに沿った内容です。まず、狭き門から入れという部分です。

 

この言葉は、世間では有名大学の入試等の、いわゆる難関を表わす言葉として使われますが、福音書では、高い能力や技術が必要だからではなく、小さくて目立たないので見つけるのが難しいという意味で使われています。

また、その門につながる道が狭いとありますが、ここでの「狭い」というのは、圧迫されて狭いという単語ですので、困難な歩みが強いられる道という意味になります。しかし、それこそが「いのちの道」であり、明示されてはいませんが、「神の国の」門とつながっているということでしょう。

それに対して、世間的には「幅広い」道は破滅への道であり、神の国に入ることができないにもかかわらず、それを選んでしまうのが多いという警告がされています。

 

この話はしばしば厳しい宗教(修行)の道と、世俗の自堕落な生活との対比といように解釈されてしまうきらいがあります。しかし、キリストはまず弟子たちに向かって語っておられることを忘れてはなりません。

もちろん、クリスチャンが世俗にどっぷりつかったような生活をしていてはならないという、一般的なことは言えますが、もう少し丁寧にキリストの言葉に耳を傾ける必要があります。

 

まず、ここでは道だけでなく門が語られているのが重要です。道を歩むというのは継続的なことがらですが、ここで狭き門から「入れ」と言われている「入れ」は、日々の継続的なことではなく、いわば単発的な選択を迫る命令(アオリスト)です。つまり、門には大小いろいろあるが、そのなかで、ある特定の目立たない門を選んでそこから入る決断をしなさいと言われているのです。

これは難しい注文です。例えば、全世界のあらゆるYouTube動画のなかで、ほとんどアクセスされていない一本の動画だけが正解で、それを見つけなさいと言われているようなものです。そして、狭い困難な道というのも、この門につながっている限りにおいて意味があるのであって、ただ困難なら良いというものでもありません。

 

では、その「狭き門」はどこにあるのでしょうか。もちろん今日の私たちは、この「門」がキリストのことを指していることをヨハネ福音書などから知っています。とするならば、世の中にあるたくさんの門の中で、キリストという門を選んでそこから入れということの意味を考える必要があります。

 

まずは、ここでも世間での一般的な誤解を見ましょう。それは、「キリスト」を「キリスト教」と取り違える誤解です。それは、「世の中には様々な宗教がある中で、キリスト教だけが正しい宗教なのだから、キリスト教徒になれ」というような考えにつながっていきます。これが誤解であることはすぐに分かります。キリスト教は今でも世界最大の宗教であり、目立たない門などではありません。もちろん、イスラム圏やイスラエル、また江戸時代の日本のように、キリスト教に改宗するのは極めて困難な社会もあります。しかし、そのような場合でも、キリスト教は悪い意味で目立った存在だからこそ弾圧されているのであって、目立たない存在ではありません。

 

ポイントは、どんな宗教であっても宗教自体は「門」ではないということです。当時の状況で言えば、ユダヤ教という宗教、つまり律法や神殿儀式等は、それ自体が門なのではなく、「門」につながるきっかけに過ぎないのです。この「きっかけ」に過ぎない周辺の事柄が、いわゆる宗教と呼ばれているものであって、当時のユダヤ教は当然として、現代のキリスト教も、しっかりと目立つものとして存在しています。しかし必要なのは、そのような周辺に所属していることではなく、「キリストというお方」とつながっているかどうかという点です。

もちろん、イエスという名前は知られているでしょう。当時も、イエス様は弟子たちやイエス様の周りに集まってきた人たちに話しておられたわけですし、現代ならイエスキリストの名前を聞いたことのない人の方が少ないでしょう。しかし問題は、そのキリストというお方と「つながるか」どうかということです。そして、その「つながる」というのは、決して目立つようなことではないのです。「隠れたところにおられる父に祈れ」と言われたイエス様は、その名前自体は有名でも、彼ご自身は隠れたところにおられるのであって、「有名なキリスト教の何々」とは別のことがらです。

 

このことと、「偽預言者」の警告が関連してきます。すなわち「イエスの御名」についての問題です。イエスの名は、実は二つの事柄を指しています。一つは広い道、つまり、キリスト教の代名詞としての名前であり、それは広く知られています。知られているばかりか、当時もその名をつかって悪霊払いや奇跡をしていた人までおり、それが偽預言者と呼ばれています。一般的に言えば、キリスト教の大事業を起こし、(それ自体は良いものであっても)その業績のゆえに神の国に入ろうとする人たちを指すとも言えるでしょう。

 

もう一つの事柄とは、「狭き門」の道、すなわち「イエスの名」がイエス様というお方の意味している場合です。

隠れたイエス様にすがり、ひっそりと、しかし着実にイエス様とつながって進む道です。それは、いわゆる「自己実現」や「大事業」の手段、あるいは神の国へのパスポートとして御名を「利用」するのではなく、ただ「イエス様」を慕うだけの、肩をすぼめないと通れないような単純かつ最深の道なのです。

そして、そのような「ひっそりとした」道は、実は人間の能力によって見つかるようなものではなく、私たちは、ただ神の恵みによって開かれ導かれていくのです。

 

―考察―

1. 自分にとって「広い道」とは何でしょうか?

2. キリストご自身とキリスト教が混同されてしまうのはなぜでしょうか?

3.「御名」が悪用されないためには何が必要でしょうか?