礼拝メッセージ要約

2021321

マタイ福音書77節から12

「山上の垂訓㉒」

 

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

 

「求めよ。さらば与えられん」という有名な言葉の個所です。

原語の「求めよ」は現在形なので「求め続けよ」という意味になります。世間では、「粘り強く追及するなら、必ず成果が得られる」という意味で理解される言葉です。いわゆる「為せば成る」の精神、あるいは「可能性思考」へともつながるものです。

聖書でも、ルカの並行箇所では、夜中に友人にパンを貸してくれと無理な頼み事をした人が、執拗に頼み続けた結果、願いがかなえられたという例話が語られているので、あながち間違った理解とは言えないでしょう。

 

しかし、ここで注意しなければならないのは、「求めよ」と言われた時に「何を求める」のかということです。

マタイでは単に「良い賜物」(複数)とあって、何かは特定されていません。良いものを願うなら、何でも神は答えてくださると理解することもできます。対してルカでは、はっきりと「聖霊」と記されています。

もちろん、マタイでもすでに「神の国とその義をまず求めなさい」と言われているのですから、単に欲しいものを願い求める話でないことは容易に想像できます。しかし、聖霊に限定するだけでは十分ではありません。

 

このマタイとルカの個所をまとめているのがヨハネです。1413節から16節でイエス様は弟子たちに「わたしの名によって求めることは、何でもそれをしましょう。父(神)が子(イエス様)によって栄光をお受けになるためです」と言われています。まさに「(イエス様の名で)求めよ。さらば(何でも)与えられん」の世界です。

これは本当でしょうか。それでは、イエス様の名は、人の願い事をかなえる全能の機械のようになってしまうのではないでしょうか。実際キリスト教版の可能性思考は、そのような点で批判されています。可能性思考では、祈りが聞かれるために三つのことを強調します。願いが具体的であること。イエス様の名で願うこと。そして、願ったなら叶えられたと信じることです。一見聖書の教えのようではあるけれども、実際は魔術の類だとの批判です。

 

もちろん、イエス様の名で魔術を行うなど、もっとも恐ろしいことです。しかし同時に、ただ受け身でいるのではなく求めよと言われており、それは父が栄光を受けるためでもあるのです。ですから、常にそうであるように、聖書は文脈を読まなければなりません。ヨハネの文章は、この「与えられん」に続いて、まず、「あなたがたがわたし(イエス様)を愛すなら、わたしの戒めを守るはずです」とあります。「わたしの戒め」というのは「互いに愛し合いなさい」という戒めのことです。マタイでは愛し合うということを、裁かず赦すという形で説明していますから、文脈は実質的に同じことだと言えます。そして、互いに愛しあうというのは、ただ人道的な勧めをしているだけではなく、その土台として、イエス様を愛しているという状況があるわけです。しかも、書かれているのは別の個所ですが、それらすべての前提として、私たちが神を愛したのではなく、まず神が私たちを愛してくださったという事態があるのです。神から人への愛が、人から神への愛、そして人と人との愛を生み出していくという状態、それが神の国ということですが、その中で私たちが神に求めるものは与えられるという約束が現実のものとなります。そして、それはそもそも父なる神が私たちを愛しておられるからです。結局すべては神の愛から始まり神の愛に帰るということなのです。

 

そのような神の愛が支配している状態、すなわち神の国がどれだけリアルなのかによって、そもそも私たちが何を求めるのかが変わってきます。リアルでなければ、人の求めるものが何なのかは今さら説明するまでもありません。しかしリアルであるならば、私たちが求めるものは自ずと神の国にふさわしいものになるはずです。逆に言えば、私たちが何を求めているかによって、神の国の現実味が示されるということです。

私たちは、どんなことでも願うことが許されていますが、はたして神の言われる「良い賜物」を願うでしょうか。それは私たちに問われていることです。

 

求める「良い賜物」の種類はいろいろあるでしょうが、神の国、神の愛があふれている所では最高のものを求めることになるでしょう。というより、神は私たちが願う以上のものを与えてくださることでしょう。(「もの」ではなくそれ以上ですが)。

ですから、ヨハネは続けて「わたしは父にお願いします。父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」と記しています。「もうひとりの助け主」とは、もちろん聖霊のことです。イエス様の求めに応じて聖霊が来られるという事態が、もっとも良いことなのです。

イエス様は聖霊が来られるので、イエス様が天に帰られ見えなくなっても、私たちは孤児になるのではないと言われました。なぜなら、イエス様と聖霊はひとつだからです。聖霊がおられるということが、イエス様が復活されたということの証しであり、復活されたということが、十字架によって神がこの世をご自分と和解させたことの証明です。ですから、聖霊を求めるということは、神がなされた和解のみわざ全体がリアルであることを求めることになるのです。要するに「神の国とその義」を求めることと同じです。

 

聖霊を求めるいうと、しばしば聖霊の力を求めるという方向に理解されます。使徒の働きで、聖霊が来ると力を受けると確かに書いてありますから、間違いではありません。問題は、どんな力を受けるのかということです。

キリストの証人となる力だともありますが、要するに十字架によって実現した神の国のリアリティを現す力です。具体的には愛、すなわち赦しと和解をもたらす力です。このことを理解するなら、私たちはこの点において、非常に力不足であるということを認めざるをえません。だからこそ、私たちは聖霊を切に求めるのです。それは神の愛が具体的に現れることを求めていることなのです。

 

マタイでは、「求めよ」の話に続いて、「人にしてほしいことを人にせよ」という、いわゆる黄金律が続いています。単なる道徳の話にすぎないように見えますが、要するに、律法と預言者は「愛」の一言にまとまると言われているのです。それが私たちの切望するものであり、神が聖霊において用意しておられる「良い賜物」なのです。

 

―考察―

1. 現在、あなたが最も求めているものは何でしょう?

2. それは、神の国において、どのような位置にあるでしょう?

3.求め続けるためには何が必要でしょう?