礼拝メッセージ要約
2021年3月14日
マタイ福音書7章1節から6節
「山上の垂訓㉑」
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」
赦しと和解が福音の根本ですから、「さばくな」という命令は当然のことです。とはいえ、この言葉は様々なメッセージを私たちに突き付けています。
まず、「さばかれないためです」とありますが、この受け身の表現は、「神」という言葉を使わないで言う表現と思われますから、「神があなたをさばかないように、あなたも人をさばいてはいけません」と読めます。
当時のユダヤで「神がさばく」というのは、終末の時の「審判」を指していますから、私たちが「さばくな」と言われているのは、人が神のごとく人を断罪することが許されないという意味になります。
もし断罪するなら、同じ基準で神から断罪されることを覚悟しなければなりません。
ここで鍵となるのは「基準」です。人間は、自分自身と他人を同じ基準で判断することができません。
自分の目には「梁」があっても見えず、他人の目にある小さな「ちり」は気になってしかたがないというのが現実です。要するに、人は客観的ではありえないということです。そのような人間が、神のごとく人をさばくことなどできないというのは当然のことでしょう。
「さばく」という言葉を「神のごとく断罪」という意味に限定すれば、わかりやすい命令です。
とは言え、世の中には、自分を神の立場に置いて、人を「神から見放された者」とか「呪われた者」などとみなす人たちがいます。単に他人に対して感情的に腹を立てるだけでなく、宗教的な確信と情熱をもって人をさばくということが行われてしまいます。当時のパリサイ人や律法学者たちの中にも、そのような人たちが大勢いました。今日も同様です。ですから、私たちは、自分の信仰が「ゆるし」をもたらすのか「さばき」をもたらすのかと、常に問わなければなりません。
しかし、一切さばいてはならないとしたら、裁判制度も無用となり、「なんでもあり」の無秩序社会になってしまうのではないでしょうか。もちろん、「赦す」ことと「許す」ことは違います。ものごとの良し悪しや価値のある無しといった判断を放棄することなどありません。また、人の目の「ちり」を取ってあげることも期待されています。では、これをどのように考えたらよいのでしょうか。
そこで私たちは不思議な言葉に出会います。唐突に思われる「豚に真珠」の話です。ここでは、「聖なるもの」と「犬」、「真珠」と「豚」が対比されています。言うまでもなく、前者は「良いもの」「価値のあるもの」のたとえで、後者はその反対です。両者がはっきりと区別されているばかりか、それらが混じることさえ不可とされています。「なんでもあり」は明確に否定されています。
それでは、この「良いもの」と「悪いもの」が何を指しているのでしょうか。
当時のユダヤ社会では、犬や豚は、まず異邦人を指しており、さらにはユダヤ人であっても、愚か者や背教者を指していました。しかし、イエス様がそのような人たちを切り捨てよと言われたはずはなく、また、すべての民に福音を宣べ伝えよという「大宣教命令」でしめくくられている当福音書の流れにもあいません。
「真珠」を福音の例えと見て、福音そのものではなく、「ご利益」しか求めない人には伝道しても「はむかってこられるだけで無駄だというように解釈する人もいますが、宣教の困難と迫害の存在を当然としている立場とも相いれませんし、ここの文脈ともつながりません。このように、この聖句の解釈は様々であり、定まったものがないのが現状です。
とは言え、はっきりしていることはあります。善悪や価値の判断は厳密に求められていること。しかも、そこには「さばくな」という大前提があることです。このことを、現代の一般的な用語を使うと、「区別をしても差別をしてはならない」ということができるようでしょう。例えば、男女の区別はあっても差別は許されないというようなことです。例えば「女は話が長いから云々」というのは差別ですが、「女性のほうがアナフィラキシー反応が多い」というのは区別です。
しかし、区別と差別の境界線は常にはっきりしているわけではありません。アナフィラキシーのような科学的なデータがあるケースはまだしも、人の価値判断が入る多くのケースでは判断は難しいものとなります。以前は単なる区別だったものが、今は差別とされるという事例も少なくありません。実際、区別と差別の分類を固定して考えることは難しいのです。
聖書は現実的なアプローチをします。それは、ユダヤ人と異邦人の問題で典型的です。まず、ユダヤ人とは何かを律法によって厳しく定義し、異邦人から厳密に区別します。それだけなら単なる区別ですが、そこから必ず差別が生じます。それは残念ながら必然です。パウロはその消息を律法と「肉」の弱さと呼んで、深く論じていますが、ここで詳細に立ち入ることはできません。ただ、歴史の現実を見れば「論より証拠」の事柄だとも言えるでしょう。
肝心なのは、差別がゴールではないということです。差別の克服へと進んでいかなければなりません。それは、律法(区別)の支配から生まれる差別を乗り越え、御霊の自由へ進むということです。例えば、ユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで、すなわち区別はあくまでも維持しつつ、キリストにあって「ひとつ」になるということです。それが、聖書で言う「和解」ということです。ですから、和解とは、区別をうやむやにして妥協することではありません。キリストにある自由の中では、むしろ区別はよりはっきりします。すなわち「個性」です。そして、個性は、それがキリストの下にあるなら、他を圧迫するためのものではなく、他を活かすものとして働きます。
大事なことは、ここでの「キリストにある個性」は、キリスト以前の個性、すなわち、たんに自他を区別するだけの個性とは異なるということです。そのような個性は差別へと向かいますが、その差別が和解によって克服された先に生まれてくる新しい「個性」が、キリストにある個性なのです。そして、その土台は、神に敵対する人に対して、神ご自身が和解の手を差し伸べられたキリストの十字架であることは言うまでもありません。
―考察―
1. 区別すべきものは区別しなければなりません。どのようにしたらできるでしょう?
2. 区別しているつもりが差別をしていることがあります。どのようにそれが分かるでしょう?
3.キリストにある自由を妨げるのは、どのようなものでしょうか?