礼拝メッセージ要約
2021年3月7日
マタイ福音書6章19節から34節
「山上の垂訓S」
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 (抜粋)
イエス様の結論は明確です。神の国(支配)と神の義(公正な慈しみ)を第一に求めるなら、私たちが必要としているものは備えられるのだから心配無用ということです。
それでは、その詳細を見ていきましょう。
まず注目するのは「宝」です。地上に宝をたくわえても、いつまでも残らないので、天に宝をたくわえよと言われています。「宝」とは、自分にとって大切なものという一般的な理解で良いでしょう。
ここで問題となるのは、地上の宝は一時的で、天の宝は永遠であるということが、はたして、私たちが天に宝を積むモーティベーションとなるのかどうかということです。
実際、多くの人は、永遠のものよりも、刹那的なものを求めます。先のことより今のことが大切なのです。
もちろん、後世に残るような事業や記録を残したいという希望を持つ人はいます。そして、その目的のために刹那的な楽しみは犠牲にしてがんばります。しかし、そのような努力によって獲得したものも、結局は過ぎ去っていき、「諸行無常の響き」だけが残ることになります。そのような時に人は「天にある永遠のもの」を求めることになるでしょうか?
その答えは、その人にとって「天」にリアリティがあるかどうかによるでしょう。リアルであれば求めるし、そうでなければ、この世で「足るを知る」ことを学ぶしかありません。イエス様にとっては天がホームグラウンドですが、私たちはイエス様とつながることによってのみ、天がリアルになります。「うつろいゆくこの世を諦めて、あの世を夢見る」のではなく、天の父の支配が、この地上にリアルに迫っているという、福音に立ち返ることが大切です。つまり、永続する天が、うつろいゆく地に迫っている今、私たちの心を天に向け、集中すべきだというのが「山上の垂訓」のメッセージなのです。
ですから、天に宝を積むというのは、目に見える形としては、この地上での具体的な行動となります。
「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」
とありますが、ユダヤでは「良い目」「悪い目」とは慣用句で、それぞれ「気前が良い」「自己中心的」という意味があります。箴言22章9節に善意の人とあるのも同じです。ですから、ここで天に宝を積むというのは、この世での報酬や名誉を期待せずに、人に善意の行ないをするという意味であり、そのような人の全身が明るいというのは、人生の全般において神から祝福されると解すことができます。
鍵となるのは、ここでも「隠れたところにおられる神」です。そのような神とは、奥まったところで密かに祈るとともに、他者に対して「隠れて」慈善を行うことを通して交わることができるということです。
言い換えると、隠れた神は、慈善を必要としている人の影に隠れておられるのです。
そして、有名な「神と富との両方に仕えることはできない」という言葉が続きます。「仕えるな」ではなく、仕えるのは不可能だということです。なぜなら、ここでの「仕える」というのは奴隷として主人に仕えるという意味でであって、ボランティアで奉仕するというのではないからです。つまり、自分の所有者はだれなのかというのが問題であり、それは神なのか富(マモン)なのかということです。これは、心の持ち方というよりも、根本的で論理的な問題です。
「富」とは、自分が所有するもののことです。自分が主で「富」が従です。そうでなければ、反対に「富」が自分を所有していることになります。「富」を所有したいのであれば、富に所有されてはなりません。つまり、「富」を自由に使えなければなりません。どんなものでも自分を所有するものがあれば、自分は自由とは言えません。しかし、神が自分の所有者なのであれば、自分はこの世の何物にも所有されることはありません。本来すべてのものは神の所有物なのですから、自分と他のものとの関係は、決して主従関係になることはなく、神に所有されているものどうしの関係になるからです。
それなのに、なぜ人は「富」に所有されてしまうのでしょうか。それは、もちろん「富」が生きていくために必要だからです。手段として必要なものが、いつのまにか目的となってしまうのです。そして大切なものを見失っていきます。大切なものとは、次の節にあるように「いのち」のことです。言い換えると、生活に追われて「いのち」を見失っている状態、それが「富」に支配されている状態だと言えるでしょう。
最近では、このことに気が付いて、必要最小限の所有物で暮らす「ミニマリスト」と呼ばれる人々が増えています。それは結構なことですが、もし「ミニマル」の生活がスタイルの問題だけであるならば、それは十分ではありません。所有物を減らすこと自体が目的なのではなく、所有物をどう使うかが問われているのですから。
自分の所有物だけでなく、他者の所有物もすべて支配しておられる神が、私を所有しておられるということが全ての出発点です。その神との関わりのことを、聖書では「いのち」と呼んでいます。それは、いわゆる「生活」以上のことであって、物の奴隷ではなく、神に所有される存在のありかたを意味します。
イエス様は「空の鳥や野の花を見よ」と言われていますが、自然科学的に観察するだけでは、それが神の所有だとはわかりません。また、人は鳥や花とは違うという議論もあるでしょう。大切なのは、鳥も花も、そして自分も神に所有されているという事実に帰ることです。
結局、最初の述べた結論に戻ります。神の国(支配)と神の義(公正な慈しみ)を第一に求めるなら、私たちが必要としているものは備えられるのだから心配無用ということです。
―考察―
1. あなたにとって「宝」とは、具体的にどんなものでしょう?
2. 物を所有しているのであって、所有されているのではないということは、どのようにしてわかるでしょう?
3.有限の「生活」と永遠のいのちはどう異なるでしょう?