礼拝メッセージ要約

2021228

マタイ福音書67節から15

「山上の垂訓R」

 

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。

『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」

 

奥まった所で、隠れた所におられる神に祈れとの言葉に続いて、有名な「主の祈り」が記されています。

主の祈りと言っても、主が弟子に「このように祈れ」と教えたものですから、「弟子の祈り」と呼ぶべきかもしれません。いずれにしても、古今東西イエス様を信じる者が皆祈ってきた大切な祈りです。

この祈りの前提として、異邦人のまねをするなと言われています。言葉数を増やして願いをかなえてもらおうというような祈りはふさわしくない、なぜなら、神は私たちが願う前から、私たちの必要をご存じなのだから、ということです。天の父に全幅の信頼を寄せているイエス様ならではの言葉です。

 

神への願い事は不要だというなら、祈りなど意味がないというというのが、いわゆる「異邦人」だとすれば、私たちはどのように祈るべきなのかという疑問に対して「主の祈り」が提示されます。

この「祈り」は、前半と後半に分けられます。前半は、私たち自身のためではなく、いわば「神のため」の祈りです。「神の名が聖とされること」「神の支配が行われること」「神の意思が、天だけでなく地でも実現すること」を願う祈りで、この三つは実質的に同じことを指しています。神の意思が実現することが、神の名が貴いものとされるということであり、御意思が無視されるということが、御名が汚されるということですから。

 

そして、この部分は当時からユダヤ会堂で唱えられている「カディシュ」と同様の内容です。つまり、「異邦人」ではなくユダヤ人の祈りであり、その言葉だけであれば、特別変わったものではありません。ただし、問題は中身です。すなわち、「神の支配(意思、国)」の内容が何なのかということです。そして、その内容とは、イエス様の「神の国」のメッセージであり、「福音」に他なりません。

ですから、「福音」抜きに「主の祈り」をしていても意味がないのです。

整理すると、「異邦人の祈り(人の意思の実現を願うこと)」から、「ユダヤ人の祈り(神の意思の実現を願うこと)への転換、そしてさらに、神の意思の内容の転換(律法から信仰へ、行いから恵みへ)と進むということです。

 

「主の祈り」の後半は、人(私たち)のための祈りです。「日々の糧」「赦し」「試み」に関してのお願いです。

「日々の糧」とありますが、別訳では「明日のための糧」となっています。

言語的にはどちらも可能なのですが、

文脈から見て、「明日の糧」と読むほうが良いと思います。「日々の糧」つまり「日常生活の必要」は祈る前から神はご存じだからです。

また、古代の教会でも、明日の糧と読まれていたようです。「明日」あるいは「将来」のパン(糧)とは終末時にいただくパンのことだという理解です。さらに、ルカ福音書の「主の祈り」では、祈りに続いて「求めよ、さらば与えられらん」という有名なことばが続き、その「与えられるもの」は聖霊のことであると記されています。

ですから、「終末の時」に与えられると約束されていた「聖霊」を「今」与えてくださいと願う祈りなのです。

そうすると、結局これは、「主の祈り」前半の、「御国が来ますように」という部分と同じことであり、その具体的な内容だということになります。

 

続いて「赦し」についての祈りです。他人が私たちに対して負っている負債を、私たちがゆるすように、あなた(神)も私たちが負っている負債をゆるして(免除して)くださいという内容です。神に対する負債の清算(決算)も、「終末」の事柄です。もちろん私たちは神に対して大赤字ですから、負債を免除していただくしか希望はありません。ただし、この祈りも「福音」を抜きにすると話がずれてきます。この文だけ読むと、人間同士の清算が、神と人との清算の条件になっているように見えます。「私は他人の罪を赦したのだから神も私の罪を赦すべきだ」というような取引ともとれます。人を赦せない私は、神に赦してもらえないと注意書きまで添えられているのですから。しかし、罪の赦しは、ただキリストの十字架のゆえに為されるといのが、福音の根本メッセージではないでしょうか。では、どう考えればよいのでしょうか。

 

まず忘れてはならないのは、この祈りは「弟子の祈り」だということです。「弟子」とは、聖霊が下り教会が誕生してからは、「罪が赦された者」を意味します。それは十字架の恵みによるのであって、私たちの行ないによるのではありません。その「赦された者」が、来るべき日に神の前に出るときに問われるのは何でしょうか。宗教家としての偉大な業績でしょうか。インフルエンサーであることでしょうか。いいえ、それはひとえに「赦しと和解」です。なぜなら「赦しと和解」が神の御心だからです。

ですから、これも結局「みこころがなりますように」という祈りの具体化なのです。

 

最後に「試みにあわせず」という部分です。これは直訳すると、「試み」に「落ち込ませず」となります。試みに会わないことはそもそも不可能であり、試練はさけられないと明言されています。しかし試みも様々であり、しばしば「誘惑」と呼ぶべきものがあります。その誘惑に負けて泥沼にはまらないようにという意味です。また、「悪より救いだし」とありますが、「悪」は「悪しき者」すなわちサタンとも読めます。誘惑という泥沼の向こうには「悪しき者」がいるわけですから、私たちは、「霊の戦い」の中にいるという現実を直視して、その戦いに負けないようにしなければなりません。

 

私たちは人に対してはあくまで「赦し」と「和解」を求め、戦うのは悪しき誘惑と、その背後にいる霊的な存在に対してだということを忘れないようにしましょう。そして、そのような戦いを通して、みこころが地でもなされていきます。

このようにして、この祈りはすべて「御名があがめられますように」ということばに集約されるのです。

 

―考察―

1.「異邦人の祈り」とは、具体的にどんなものでしょう?

2.「主の祈り」をひとり隠れたところで祈るというのは、どういう意味があるでしょう?

3.「主の祈り」を複数人で祈るというのは、どういう意味があるでしょう?