礼拝メッセージ要約
2021年2月21日
マタイ福音書6章1節から6節 16節から18節
「山上の垂訓」Q
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」
「人前で善行をするな」の「善行」は、通常「義」と訳されている言葉です。それが何故「善行」と訳されているかというと、ここで施し等の善行(慈善)について語られているからだけでなく、義を善行と同一視するのはユダヤの(そして聖書の)伝統でもあるからです。例えば、イザヤ書6章6節〜12節では、真実の「断食」とは、弱者救済や公正な社会の実現であり、宗教行事ではないと述べられています。このテーマは、これまでも何度も取り上げられていました。「義」とは「公正」であり、公正の実現には善行が必要だということです。
その上で、今回の個所は、別の角度から、「善行」「義」について述べられています。その「善行」が、人に見せるためのものなのかどうかという問題です。具体例として、「施し」「祈り」「断食」があげられています。
「祈り」や「断食」も善行に数えられているのは、それらが、ある意味で「自己否定」(生まれながらの性質を抑えて、より高い目的を目指すこと)であり、神に近づくと同時に、社会にも善をもたらすと考えられているからです。これは、ユダヤだけでなく、多くの宗教世界でも見られることです。
イエス様は、それらのこと自体を否定されているのではありませんが、そこに潜む危険な偽善を警告されています。すなわち、「人に見せる」、ショウ(Show)として行うという危険です。「ショウほど素敵な商売はない」というミュージカルがありますが、この世の現実を見事に表した言葉です。この世は、いかに見せるか、見てもらうかで成り立っていると言っても過言ではないでしょう。
もちろん、いくら「見せる」=「魅せる」だと言っても、過度に「見せびらかす」ことについては眉をひそめる人も多いでしょう。善行は、「さりげなく」知られるほうが好感度が高いと思われるかもしれません。
しかし、好感度が問題となっている限り、結局は「人がどう見るか」の話になってしまいます。他人から良く思われたいという思いを捨てるのは、簡単なことではありません。
人には「承認欲求」と呼ばれる、他人から認められたいという根本的な欲求があります。それは、社会の一員として生きて行く上で不可欠なものです。だれからも認められない、必要とされないと感じたままで、健全に社会
生活をおくることはできません。しかし、ここで語られているのは、社会との関わりではなく、神との関わりです。施し、祈り、断食は、神への奉仕なのです。
社会活動としての施し、慈善は他者の評価が必要です。そうでなければ、単なる独善に陥る可能性があるからです。しかし、そのような慈善活動によって神から評価されようと思うと誤ります。
祈りや断食は神に向かっているように見えますが、他人や社会へのメッセージも持っていますから要注意です。
例えば、複数の人で祈るとき、祈りの言葉で説教する人がいますが、それは人に見せる「お祈り」ではあっても、神への祈りではありません。もちろん、ひとりで奥まった場所で祈れというのは、必ずしも集団での祈り全てを否定しているものではありません。例えば「主の祈り」も、「私たち」の祈りです。いずれにしても、祈り自体はあくまでも神に向かってなされるべきです。また、断食も祈りに集中するための一つの形ですので、祈り同様、人に知らせるようなものではありません。
このことは、様々なことに当てはまります。賛美も同様です。賛美は神に対して捧げられるものですから、キリスト教音楽が全てそのまま賛美となるわけでもありません。儀式、建築、美術、みなそうです。
煎じ詰めれば、宗教が見世物、ショウになっていないかという問題です。見世物とは、つまり神不在の宗教であり、「神」はただの飾り物になってしまうのです。しかも、それは、派手に飾られるという倒錯に陥ります。
ですから、イエス様は「隠れたところにおられる神(あなたがたの父」に祈れと言われるのです。「神」と呼ばれるものは、世の中にたくさん存在しますが、私たちの父は隠れたところにおられるからです。
イザヤ書45章15節に「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」とあるとおりです。
以前に、神の尊厳とは神ご自身のプライベートな世界だということを学びました。祈りとは対話です。対話は基本的にプライベートな事柄です。神が報いてくださるというのは、いわゆる「ご利益」があるということではなく、神がプライベートな関わりを持ってくださるということです。すなわち、奥まって隠れたところにいる人が、隠れたところにおられる神とかかわるのです。そして、その場での対話は、必要に応じて他の人々と共有されます。そして、それは「慈善」も含めた様々な形をとることになります。
もし神がご自身を完全に隠されてしまったら、だれも発見することはできません。そこで福音は告げます。神はご自身の御子の中にご自身を隠されました。すなわち、罪びとの仲間、神殿の権威を無視する者、律法の破壊者、非国民、偽預言者、偽メシア等、あらゆる悪しきレッテルを貼られ、弟子からも見捨てられたお方の中に隠れておられるのです。その「隠れた神」と対話するのは、難しいと共に単純です。なぜなら、この「十字架のお方」は復活し今も生きておられ、その名を呼ぶ者には答えてくださるからです。「主の名を呼ぶものはだれでも救われる」のです。
ただし、それは呪文のように「イエスの名」を唱えたり、選挙カーでの宣伝のように連呼することではなく、「隠れたところにおられる父」との交わりであることを忘れないようにしましょう。
―考察―
1.「承認欲求」は、どのようにして満たされていますか?
2.いわゆる「ひきこもり」について、どう考えますか?
3.情報化社会の中で、どのようにプライバシーを守っていけるでしょうか?