礼拝メッセージ要約
2021年2月14日
マタイ福音書5章38節から48節
「山上の垂訓」P
「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
律法(昔の人)の立場とイエス様の世界の違いについての結びの部分です。マタイ福音書では「復讐の禁止」と「愛敵」の二つに分かれていますが、ルカ福音書では一つにまとめられています。ここでは一つのこととして読みます。すなわち、復讐の禁止という消極面と愛敵という積極面をもつ一つの事態ということです。
「目には目を」というのは有名な言葉ですが、「同害報復法」と呼ばれ、モーセ律法を始め古代でも広く認められていた制度でした。「倍返し」したいという情を抑え、報復の連鎖を止めるためのもので、現代でも例えば「正当防衛」の範囲の規定などに見られます。これは、この世の法律・制度の話ですが、イエス様は神の子たちの話をされます。
マタイ福音書は主にユダヤ人向けなので、法廷やローマ占領下での状況で書いています。
右の頬を打つというのは侮辱の表現で、「侮辱されても侮辱し返すな」ということです。
告訴して下着云々というのは、律法で、貧しい人が寒さをしのぐ最後の砦である上着は差し押さえてはならないという規定があっても、法を盾にして抵抗するなということです。(出エジプト22章25節〜26節)
一ミリオン云々というのは、ローマ軍が労働を強制する時のことで、ここでは報復の代わりに奉仕の倍返しをしなさいということです。
「求めるものには与え」というのは、一般的な慈善の話ともとれますが、「悪い者」にどう対処するのかという文脈ですから、やはり、不当な求めさえも受け入れよということでしょう。
いずれも、「愛敵」の具体的な例です。
このような「愛敵」の教えには当然、反論があります。それは悪を助長するので間違っているという反論や、それは理想だが不可能だという反論です。そこで、この問題をよく考えてみましょう。
まず第一に、「愛敵の教え」は法律制度の話ではないということがポイントです。「正当防衛」さえ認めない、加害者が一方的に有利になるような法律を作れと言っているわけではないということです。
神は、イスラエル社会の弱者に対する不正のゆえに、彼らの礼拝さえ忌み嫌ったと言われているとおりです。
また、そもそも「敵」を作り、また「敵」の存在を当然とすることも間違っており、礼拝さえも後回しにして、まず和解を求めよという言葉も学んだばかりです。
ですから、ここで問題となっている「悪い者」とは、公正さを要求する法律があっても無視し、こちらからの和解の努力もすべて拒否する者のことであり、それが要するに「敵」ということです。そのような敵にどう対処するのかが問題となっています。
これは、敵国に対して、「南風政策」と「北風政策」のどちらをとるべきかという話になってしまうことがありますが、それは、あくまでも本来対等な立場にある国同士の話です。イエス様の話は、ローマの占領軍やユダヤの宗教勢力と、彼らから迫害されているイエス様の弟子たちという、不平等な関係にある者同士のことです。
単純化すると、弱者と強者との関係と言えます。
このような状況では、強者の横暴に対して弱者がとる選択は三つしかありません。第一は、あきらめて「やられっぱなし」になること。これは、敵に対して迎合するということも含みます。当時のイスラエルとローマとの関係で言えば、祭司、サドカイ派の立場です。第二は、圧倒的に不利であっても立ち向かい戦うこと。当初は熱心党が主導し、やがて国全体がこの道を選択したものの、彼らの期待に反し、壊滅的な結果を招きました。そして第三がイエス様の道です。
一般的に、まず第一の道を模索するものの、やがて限界に達し、第二の道に移行します。そして、それはしばしば悲劇的な結末を迎えます。しかし、旧約の歴史の中でも、圧倒的な敵に対して弱小イスラエルが勝ち、それが神の力によるものと捉えられた事例もありますから、第二の選択を無下に否定できません。そして、この世の仕組みとしては、弱者の抵抗権や防衛権を無視することはできないのです。
しかしイエス様の弟子は、そのような当然の権利をあえて用いません。これは、あくまで「自分は用いない」のであって、他者の権利を否定するのではないことを忘れてはなりません。
その地上の権利の代わりに、主の弟子は別の権威を行使します。それは、神の子としての権威であり、この世の権利関係を飛び越え、相手は敵であることを無視して、いわば「勝手に」、完全に自主的に行動するのです。
そのようなクリスチャンの行動は、世間から誤解され、迫害を増す結果になることもあります。
当時、第一次ユダヤ戦争になだれ込んでいく中で、主の弟子はイエス様のことばに従い、ローマに抵抗せず最後には逃げました。それは身勝手な裏切り行為とみなされ、ユダヤ主流派とクリスチャンの溝は決定的になってしまいました。しかし、イスラエルは壊滅し、クリスチャンはローマ帝国中で福音を広げていくことになったのです。もちろんこれは、手放しで喜ぶことではなく、実に重い、悲劇的な歴史です。イエス様のことばは、そのような、限界状況の中で語られているのであり、単なる「美しい(けれども難しい)教え」ではありません。
私たちに問われているのは、この世に公正な仕組みがあることを追求しつつ、なお、それが破られている厳しい状況の中で、主の導きを求めることです。そして、その導きの中で、あえて権利を行使せず、神の子としての権威を行使することがあるのです。すなわち、キリストの十字架の道を歩むことです。
―考察―
1.侮辱されると腹がたつのはなぜでしょうか?
2.「裏切者」「非国民」などと「不当に」呼ばれるのは、どのような時でしょうか?
3.どのような場合に、「あえて権利を行使しない」ことがあるでしょうか?