礼拝メッセージ要約

202127

マタイ福音書533節から37

「山上の垂訓」O

 

「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。

エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

 

イエス様は、続けて「誓い」について語られます。

ここで、昔の人々の言い伝えとされているものは、直接的な律法の引用ではなく、レビ記1912節の「わたしの名を用いて偽り誓うな」と出エジプト207節の「神の御名をみだりに唱えるな」という部分、そして民数記303節の「誓願は果たせ」という箇所の要約です。

古代のイスラエルでは「主は生きておられる」という定型句で、自分の言葉は真実であることを確証していました。

神の名を引き合いに出す以上、嘘をつくなというのは当然のことです。ユダヤ人は、そもそも神の名を畏れ多いものと感じているので、天やエルサレムなど、それに代わる名を使って誓うということが行われていましたが、それでも誓いの本質は同じです。

 

現代の日本でも、例えば、国会の証人喚問では、宣誓(ここでは良心に誓う)の上で証言し、嘘であれば偽証罪に問われます。しかし、宣誓の無い場では、事実でない発言も取り消すことができ、信頼度は落としても罪には問われません。ユダヤでも日本でも同じことです。

これは現実問題として、宣誓のない、嘘かもしれない言葉もありえるということです。だからこそ、「他はともかく、これだけは誓って真実だ」という発言が意味をもつわけです。法律(律法)としては、それ以上のことはできません。できるのは、偽証を罰することだけです。

 

それに対して、イエス様は、「誓ってはならない」、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけにせよ」と言われています。これは、二つの観点から見ることができます。ひとつは「神の国」の観点、もう一つは「人の国」の観点です。

神の国の観点とはこうです。神の国では、そもそも嘘がない、だから人は嘘をつくという前提がない以上、そもそも「誓い」が必要ないということです。それなのに、わざわざ「誓って云々」というのは、嘘の存在を前提としているので、それは「悪い者から出ている(別訳)」ということになります。要するに、神の国には偽証がないのです。

パウロは、「キリストは、『しかり』と同時に『否』であるような方ではありません。」と書いています。神に嘘はなく、「神の約束は全てキリストにおいて『しかり』となった」、つまり約束は守られた(第2コリント117節から20節)のです。

 

この「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」ということを、証言の真実性の問題から離れて、いわゆる〇×問題にしてしまう危険があります。時々、西洋キリスト教世界は、イエス・ノーをはっきりさせなければならない。東洋的な「イエスでありノーでもある」という、深いニュアンスを許さないというような主張が見受けられます。

確かに、例えば「好きか嫌いかハッキリしろ」と言われても、「好きでもあるし、嫌いでもある」ということはいくらでもあるわけです。それでも「好き嫌い」を決めなければならないのでしょうか。

もちろん、そういう意味ではありません。問題は証言の真実性ですから、「好きでもあるし、嫌いでもある」のが事実なら、そう言うのが正しい証言なのであって、それをあえて「好き」か「嫌い」かどちらかに断定するのが間違っているのです。

聖書は全てを0か1に還元するデジタル思考を勧めているのではなく、事実と証言の一致を求めているということを忘れてはなりません。そして、常に事実と証言が一致しているのなら、誓いのある証言と誓いの無い証言という区別が成立しない、神はそういうお方ですし、神の国もそういう国だということです。

 

では「人の国」の観点とはなんでしょうか。それは、人は神ではないという、端的な事実からの観点です。

つまり、人の言葉は、どんなに最善を尽くしたとしても、決して事実と完全に一致することはできないという現実です。イスラム教の用語で「インシャラ―」というのがあります。たとえ約束をしても、守れなくなることもある。それもまた神の思し召しだという意味です。「神のみぞ知る」ことがあり、それを受け入れるべきだということです。

それなら、むしろ誓約などしないほうが安全でしょう。あるいは、もし誓約したとしても、それを解除する方法も必要になります。(ユダヤ人も解除方法について議論しているようです)。

しかし聖書の論点は、どうすれば安全かということではなく、人は本質的に偽るものだという厳粛な事実です。

意図的かそうでないかは別として、人の言葉が100パーセント正しいということはあり得ないということです。

もちろん、だから約束に意味がないということにはなりません。嘘はいけません。しかし、なすべきことが出来ず、してはならないことをしてしまうのが人間です。人は皆「罪人」、つまり、的が外れているのですが、この文脈で言えば、言葉が事実を正確に指し示していないということです。

 

そして、この現実は、問題の出発点に過ぎません。事実と言葉が一致しないこと自体も問題ですが、さらに、そのような不正確な言葉を真実だと主張し、絶対化してしまうということが大きな問題です。

誓約というのは、絶対に正しいということです。インシャラ―の場合、人間の不真実を「神の思し召し」と呼んで誤魔化す危険がありますが、ここでは、人間の不正確な言葉を、神を利用して絶対化するという危険があるのです。

どちらも、神の名の誤用であり、神の名をおとしめることになります。

いわゆる偽預言も同じ問題です。人間の言葉を神のことばと偽り、絶対化するという重大な罪です。

このような過ちは、様々な形で存在していますから、注意しなければなりません。

 

結局、私たちは自分が罪人であるという原点からスタートするということです。神だけが真実であり自分は偽り者でるという厳粛な事実があります。それは、神の名で誓っても変わりません。

「私たちは真実でなくても、神は常に真実である」(第2テモテ213節)とある通りです。

そして、その現実のただ中にこそ福音が届きました。キリストは、まさに不真実の塊である私たちを「義」とするために来られ、十字架の上で私たちの罪を担われました。

ですから今や「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ45節)

 

―考察―

1.「神様は偽らない」と、どうして言えますか?

2.人は偽るとしても、なお約束は守らなければならないとしたら、どうしたら良いでしょうか?

3.人と言葉を絶対化するために神を悪用する危険とは、具体的にどのようなことでしょうか?