礼拝メッセージ要約
2021年1月31日
マタイ福音書5章31節から32節 19章3節から12節
「山上の垂訓」N
「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」
パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」
しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。」
「姦淫」の問題は、結局「結婚」をどうとらえるのかという問題にいきつきます。
そして、それは「離婚」をどう扱うかによって、いわば「裏側から」はっきりしてきます。
結婚・離婚問題も、三つの観点から考えることができます。
第一は、外形的な観点です。第二は、内面的な観点です。第三は、霊的な観点です。
第一の外形的な観点とは、結婚を制度として考えるということです。つまり、法律などの社会制度としての結婚です。世間でよく言われる「入籍」したということが、結婚の定義となります。
ですから、離婚が許されるのか、許されるとしたなら、どのような条件なのか等ということが、法律や制度としてはっきりしています。
この点、日本のように、両人の同意のみによって結婚が保証される所では、離婚も当人の同意があれば基本的にできるので、形式的には簡単に離婚ができます。(あくまで形式的であり、実際には様々な問題があるのは言うまでもありません)。
一方、例えばカトリック圏のように基本的に離婚ができないところでは、四つの可能性が考えられます。
一つ目は幸せな結婚生活をおくる可能性。二つ目は不幸な結婚生活をがまんする可能性。三つめは不幸な結婚だが離婚せずに別居生活をする可能性。そして四つ目は法的な結婚をしないで、「事実婚」状態でいる可能性です。
今増えつつある事実婚は、外形としては「結婚」ではありません。そして、そもそも結婚しないのだから離婚もありません。そのような、いわば「同棲生活」が続くか一時的かは本人次第であって、外から規制できません。
そして、女性の生活力が増し、また男女ともに結婚制度に頼る必要性が減少している社会では、この「事実婚」が増加するのは当然でしょう。同時に「離婚問題」そのものが見えなくなっていきます。
これは、外側から結婚を規制しようとする律法の限界をも意味しています。
制度の縛りが緩くなれば、当然、当人の考えや感じ方で物事が決まっていきます。そこで、第二の観点、内面的なことがらが表面化してきます。当事者が結婚と離婚について、どう考え、感じているのかが問われます。
結婚は終生続けるべきだと考える人もいれば、そうでない人もいるでしょう。同性婚を認める人もいれば反対する人もいます。そもそも、法的な面は別として「結婚」とは何なのかという点について、考え方は実に様々であり、当事者同士で一致するのかどうか不確かです。
また、一時的に一致したとしても、それが続く保証もありません。そもそも、だからこそ法的な縛りや社会的な規制があるわけです。しかし、外的な縛りで心をコントロールすることはできません。では、何が心の在り方を規定するのでしょうか。
それが第三の観点、「霊的」な観点です。この「霊的」という言葉を宗教の教義と混同してはなりません。
例えばカトリックの教義として離婚は禁止されています。それは外的な規定です。同じキリスト教でもプロテスタントは異なる規定を持っています。イエス様は、モーセの規定も、かたくなな心のために加えられたものだと言われています。
「霊的」というのは、宗教はどうであれ、人間の存在を成り立たせている根本的なあり方のことです。イエス様はこれを「はじめ(そもそも)はこうだ」という形で語られます。
「神は人を男と女とに造られた」ことが基盤です。ちなみに性的少数者がいるというのは、性の自覚や指向に多様性があるということであって、男でも女でもない第三の性(例えば未知のA染色体を持っていて、XA染色体を持つ子供を産む人間)がいるわけではありません。これは宗教問題ではなく事実問題です。
そして、神が男と女を合わせたものを「結婚」と呼んでいます。これは言葉の定義の問題です。
法律や社会の定義とも違う定義なので、そこから先の議論は水掛け論になる可能性があります。
注意しなければならないのは、人間が決めた結婚を神が追認する必要がないということです。言い換えると、人が結婚と呼ぶのだから、それは必然的に神が結び合わせたのだと主張することはできないということです。
キリスト教式で結婚したのだから、これは神が合わせたのだとか、反対にキリスト教式でないから、単に人が合わせただけだなどと言う問題ではありません。
順序が逆であって、まず「神が合わせる」ということがあって、それを結婚と呼ぶのです。人間の存在を規定しているお方が合わせた、これを人は奇跡と呼ぶか、縁と呼ぶか、呼び方は色々あるでしょうが、当人の意向はもちろん、家族や社会の要請さえも超えて引き合わされた現実を指しています。
では、「神が合わせた」のかどうかは、どのようにして分かるのでしょうか。実は、それを目に見える形で証明する方法はありません。それは、神の召し、呼びかけなのです。人はその呼びかけに答えるのであり、信仰の決断と同様、ある意味では「賭け」です。呼びかける声を信じて飛びこむのです。
そして、その呼びかけは特別なものであり、ただ与えられた者だけが受け入れることができます。
一言で言えば、神の恵みなのです。
ですから、恵みを受けた者は、結婚が破綻した人を非難することはできませんし、また、制度として離婚を禁止して解決することでもないのです。あくまでも、神の恵みが集約された「キリストの十字架」に帰らなければなりません。
―考察―
1.パリサイ人は、なぜこのような質問をしたのでしょうか?
2.弟子たちが、「それなら結婚しないほうがましだ」と言ったのはなぜでしょうか?
3.性的少数者についてキリスト教内でも保守とリベラルで立場が異なることについてどう思いますか?