礼拝メッセージ要約
2021年1月24日
マタイ福音書5章27節から32節
「山上の垂訓」M
「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」
イエス様は、殺人のテーマに続いて、「姦淫」について述べられます。
「姦淫」は「故意の殺人」同様、死刑の対象となる重罪でした。
当時のユダヤ社会、つまりモーセ律法が支配している世界で「姦淫」というのは、現代で言えば「不倫」です。厳密には、既婚女性(または婚約中の女性)が夫以外の男性(または婚約相手以外の男性)と肉体関係を持つことで、その場合、男性も女性も現行犯であれば石打ちの刑に処せられるきまりでした。
なお、当時の家父長的社会では、既婚男性が独身の女性(ただし婚約者以外)と関係を持っても姦淫とはならない、男女不平等なものでした。もちろん、社会的責任が要求されることはありましたが。
(当時、男性の浮気(独身女性との)や買春が死刑にならなかったのは別の課題です。)
その前提でイエス様のことばに耳を傾けます。上記の「姦淫」、すなわち外部に現れるもの対して、心の内部での姦淫があり、罪状は外部のものと同様、絶対に避けるべきものだということです。
(右の目、右の手を失って云々というのは、なにがなんでもということの比喩的表現です。右というのは一層価値が高い方という意味です。文字通り、片目、片手になれば姦淫できないということではありません)。
外部の姦淫に対して内部の姦淫を話題にしているのですから、拡大解釈して、性欲そのものの否定と捉えてはなりません。つまり、夫婦間の性欲まで否定して独身主義を主張することは避けなければなりません。
イエス様の言葉を文字通り訳すと、「(男は)だれでも女(ここでは他人の妻や他人の婚約者のこと)を切望するために見つめ続けるならば、すでに心の中で姦淫したのです」。
単純に言えば、「姦淫」を心の中で準備していれば、まだ実行していなくても有罪ということです。
これは、法的にはかなり難しいです。犯罪を準備段階で摘発できるかどうかについては議論があります。
テロの摘発については、部分的には適用される場合がありますが、それは、未然に防ぐメリットの方が、人権侵害の危険を冒すデメリットより大きいからでしょう。
ただそれが、実際に武器を集めていたというような場合はともかく、SNSで怪しげな書き込みをしただけのような場合はどうなるのかという問題もあります。つまり、内心の自由と表現の自由はどうなるのかというテーマです。いずれにしても、それらの自由が制限されるとすれば、それは、よほど重大な危険を防ぐためでなければなりません。
そして、まさに「姦淫」はそのような重大な案件だとイエス様は言われるのです。なぜなら、「姦淫」は結婚制度そのものを破壊するものだからです。
しかし、人はこう言うでしょう。不倫の願望があっても、ただ見つめるだけなら相手の家庭に対して害はないだろう。公然と見つめていたら問題かもしれないが、こっそり見ているだけならいいではないか。要は、密かなストーキングなら不倫とは言えないではないか、等。
しかし、問題はどのように見つめるかではなく、結婚そのものを否定していることなのです。
ですから、ここでのテーマは心の中の欲望をいかにコントロールするかという以前に、結婚をどう考えるのかということです。ですから、イエス様は当然、離婚について語られるわけですが、そのテーマに入る前に、いくつか注意しておくことがあります。
まず第一に、イエス様はこのように姦淫を大罪と考えられていますが、同時に、その罪を犯した人が赦される可能性も語られます。いや、語るだけでなく、ヨハネ福音書の記事にもあるように、実際に姦淫の現場で捕えられた女性を赦し、解放してくださいました。キリストによる無限の愛と赦し、すなわち福音を離れて聖書を読むと、根本的な誤りに陥りますので、まず気を付けましょう。不倫は許されないが、不倫を犯した者は、十字架にあって赦されるのです。
第二に、女性を「切望」するとは、どういうことなのかということなのかという問題です。
人妻を切望するというのは、当然、自分のものにしよう、つまり所有しようということです。ただし所有というのは、必ずしも結婚を意味しません。自分の支配力を示すというのが根本です。例えばレイプの原因は性欲よりも支配欲であるとは、しばしば指摘されることです。
その意味では、切望というのは、不倫に限らず、女性を不当に支配すること全般を意味していると考えなければなりません。
ですから、異性を自分の欲の「対象物」としてではなく、独立した「人格」として見ることが必要となります。
イエス様が、どのように女性と接しておられるかを知ることが大切になります。
第三に、「切望」の具体的な形が、「見つめ続ける」(原語は現在形、つまり一瞬ではなく継続を表します)であることです。一般的に男性は女性を「見る」ことによって欲望を刺激される度合いが強いです。(欲望とは性欲だけでなく支配欲も意味します)。そのことは女性も認識しておくべきでしょう。
もちろん、問題は欲望を持つ方であって、持たれた方ではありません。レイプ犯罪で言えば、悪いのは加害者であって、被害者でないのは当然のことですが、被害を避けるための注意が必要です。
いずれにしても、問題は何が見えるかではなく、どう見つめるかです。
「見る」というのは、「見える」プラス「想像する」です。そして、何を想像するかによって、その人の内部にあるものが表れます。そして、その内部にあるものが最終的には行動となります。
イエス様は、そのプロセス全体について語られているのです。
そして、それは男女の問題に限らないことは言うまでもありません。
―考察―
1.「不倫」についてのドラマが多いのはなぜでしょうか?
2.イエス様の女性への接し方について考えてみましょう。
3.「見方」「見え方」の具体的なケースについて考えてみましょう。