礼拝メッセージ要約

2021117

マタイ福音書523節から26

「山上の垂訓」L

 

 

「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」

 

前回学んだ「怒り」への警告に続いて「和解」の重要性が語られます。

怒りの対処法に話を限ってしまうと、自分の心の持ち方だけに注意がいってしまいますが、ここで問題になっているのは、目に見える形で表われる実際の人間関係です。すなわち「和解」です。

自分の恨みだけでなく、他人の恨みも問題とされています。

 

まず要点はこうです。祭壇に供え物をささげる前に、まず和解をしなさい、つまり、いわゆる宗教的行動より倫理的行動を優先しなさいということです。

宗教と倫理とどちらに優先権があるのかという問題は、おそらく現代社会の最大の問題のひとつでしょう。

当時のユダヤ社会だけでなく、現代でもイスラム社会をはじめ、多くの宗教的環境では、宗教的な戒律や伝統が絶対的な権威を持っています。それに対して、日本を含む西洋的な「世俗社会」では、まず宗教から独立した倫理的基準があり、諸宗教はそれに服するべきだということになっています。

そこで色々な問題が起こります。身近なところでは、エホバの証人の輸血拒否などは有名です。宗教の戒律のために人命が失われることが倫理的に許されるのかということが問題とされます。

極端なケースでは、宗教のために戦争をするようなこと(いわゆる聖戦)が正当化される危険もあります。

このようなことは、事の大小を問わずあらゆる所に見出すことができます。

もちろんマタイのこの箇所の場合は、人命がかかわるような重大問題ではないようにも見えます。供え物と和解のどちらかにせよと言っているのではなく、順序のことを言われているのですから。しかし、優先順位の問題であることに変わりはありません。そしてまさにその優先順位こそが大問題なのです。

 

それでは、イエス様は現代の世俗社会と同じように、倫理を宗教に優先すべきだと言われているのでしょうか?

答えはイエスでありノーです。それは、「宗教」という言葉が何を指しているかによります。

イザヤ110節から20節に神が堕落したユダヤの民に向けて語られた言葉が記録されています。

そこでは、主なる神は、かれらのささげものを嫌い、祭りを憎み、祈りを聞かないとまで言われています。

まずは悪を取り除き公正(な社会)を求めよ。話はそれからだということです。

まず倫理を正してから宗教活動をせよということで、イザヤなど預言者たちがしばしば語ってきたことです。

その意味では、イエス様も預言者と同じ路線で語っておられると言えるでしょう。

もし、「宗教」が儀式や習慣を守ることだけならば、まずは倫理を正せというのは当然のことです。

 

しかし「宗教」が神と人との関係のことを指している時には事は単純ではありません。「神」が宗教儀式の対象でではなく、人間を超え、人間を成立させている存在であるなら、人間が最高であり、人間を成立させているのは自然法則のみだと言いきらない限り、何らかの広い意味での「宗教」が関わってくるのです。

言い換えると、倫理がただ人間の好悪や損得の問題だけでなく、それ以上のものによって成り立っているのかどうかということです。

つまり、たとえ嫌いなことで、自分が損をするとしても、正しいことであれば選択すべきというのが倫理的ということであり、功利主義に制限をかけるものなのです。

 

もちろん、功利主義の人は言います。たとえ今は損をしても、それによって社会が潤えば、いずれ自分も得をするのだから、結局は損得勘定なのだと。わかりやすい考え方ですが、全く現実とは異なることは明らかでしょう。

世の中には、最初から最後まで「損」ばかりしている人々がたくさんいるのです。要するに、世の中は不条理です。いや、個人のことはどうでもいいのだ。社会が良ければいいのだという考え(共産主義や全体主義)もあります。しかし、その「社会」とは結局のところ、一部の権力者の利害に過ぎない事もわかりきったことです。

また、そのような国家が他国に対して露骨に功利主義的な態度で接する時に、他国はそれを非難するでしょう。

 

ですから、「倫理」が本当に意味を持っているとすれば、それが人間を「外」から規定しているものでなければなりません。ちょうど、物理法則が人間を「外」から規定しているようなものです。

ただし、物理法則と倫理は決定的に異なるところがあります。それは、物理法則は破ることが出来ないのに対して、倫理は破ることができるということです。(というより、破ることの方が多いくらいです)。

ですから、倫理が規則であっても法則ではありません。ただし、人の好悪や都合によって勝手に変えられるようなものではなく、人の在り方を規定している不思議なものなのです。

 

イエス様は、その倫理の中心に「和解」を置きます。なぜでしょうか?

功利主義的な解釈では、社会の内部が分裂しているより、和が保たれている方が、社会にとって益になるからだとなるでしょう。もちろん、喧嘩状態より仲がよいほうが、個人にとっても益であることは当然です。

しかし、ここで問われているのは倫理です。つまり、自分を恨んでいる人に対して和解のアプローチをせよというのは倫理的な命令であって、それが嫌で損であっても行うかどうかなのです。

言い換えると、こちらからは和解を求めても、それに見返りがあるとは限らないということです。

 

これは福音の本質にかかわることです。すなわち、「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(Uコリント519節)

非は人にあるにもかかわらず、神の方から和解の手を差し伸べられた、それがキリストの十字架です。

その和解の道は茨の道であり、今や、和解のことばを私たちにゆだねるという、実に地味なかたちで継続されています。そして、その和解の務めこそが、目にみえる供え物や宗教儀式に優るものです。

もちろん、まず神からの和解を受け入れ、人々にもそう進めることです。その前提として、自分に対して良くない思いを持っている人であっても排除しないことが必要です。「キリストにあって」和解の働きに携わることこそが、神とともに歩む人生なのです。

 

―考察―

1.恨まれても仕方がない時と、恨まれるすじあいはない時とありますが、どう区別しますか?

2.どのような時に宗教と世俗の対立を感じますか。その時どのような方法で対処していますか?

3.この世で報われなくてもあの世で報われればよいというのも功利主義の一種でしょうか?