礼拝メッセージ要約
2021年1月10日
マタイ福音書5章21節から22節
「山上の垂訓」K
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」
(参考)エペソ4章26節〜27節 ヤコブ1章19節〜21節
続けて、山上の垂訓を読んでいきます。
この箇所から、イエス様は色々な事例について、「昔の人々に言われていること」と、ご自身が言われることを比較して語られます。昔の人々に言われていることの大半は、モーセ律法の内容ですから、単にユダヤの伝統のことを指しているのではなく、神のことばとして受け入れられている権威に対して、ご自身の立場を述べられているのです。これは、律法を絶対とする人たちに対して、大胆を超えて「あり得ない」事態だと言えるでしょう。
まずは、その内容に目を向けてみましょう。最初のテーマは殺人と怒りです。
モーセ律法では、故意の殺人に対しては死刑、過失の殺人に関しては、「のがれの町に隔離されること」が定められていました。(古代では、いわゆる敵討ちも認められていました)。
それ自体は、一般的な刑法ですが、イスラエルで「さばき」と言えば、ただ社会的なさばき以上に、神の民から除外される、つまり神のさばきというニュアンスがあることも忘れてはならないでしょう。
この「殺人」と対比して、イエス様は「兄弟に向かって腹を立てる」ことも同様にさばきの対象となると言われます。この「さばき」も、律法同様、神のさばきの意味もあると考えなければなりません。(最高議会に引き渡される、ゲヘナに投げ込まれる等の表現は、これを強調していると見られます)。
「腹を立てる」だけで殺人と同じであるばかりか、神のさばきを受けるとなると、まじめな人ならだれでも震え上がるのではないでしょうか。そこで、聖書が「腹を立てること」、すなわち「怒り」について語っていることを読んでいきましょう。
「怒り」については、世間でもよく語られます。その破壊的な感情をどうコントロールするか、いわゆる「アンガーマネージメント」は大きなテーマです。
怒りのコントロールが必要なのは当然ですが、そもそも「怒り」そのものがすべて悪であるかというと、そうとは言えません。「神の怒り」についての言及はたくさんありますし、何より、イエス様ご自身が心のかたくなな宗教家に対して「怒り」をもって目を向けられたこともあります。(マルコ3章5節)
そうなると、「怒り」にも質(しつ)があることになります。
まず、ヤコブ1章20節にあるように、人の怒りは神の義を実現しません。たとえそれが正当な怒りであっても、人の義を実現するにすぎないのです。ですから、神の国と神の義を第一に求めるなかでは、正当な怒りも優先順位はさがります。怒るのは遅くというのは、ただ「6秒気をそらせば心が落ち着く」という6秒ルールの話だけではなく、優先順位を正しく持つということです。直前の箇所に、「聞くには早く、語るには遅く」とありますが、これも単に聞き方上手を目指すだけでは、いずれ破綻してしまうでしょう。相手の話を聞いている時に、そのことを通して神様は何を語っておられるのかを探り求めることが大切なのです。
エペソ4章26節には、「怒っても罪を犯してはならない」とあります。怒り自体は正当なこともありますが、怒りは罪につながる危険があるということです。その危険とは、「悪魔に機会を与える」というものです。「機会」とは「場所」のことです。
怒った状態を続けていると、直訳すると、あなたの「憤り、むかつき」の上に太陽が下ると、悪魔があなたの領域のどこかに場所を作ってしまうというのです。
腹を立てている間は、冷静な判断ができないというのは常識です。ただし、単に世間的な意味で冷静な判断が求められているだけでなく、ヤコブ書の記事同様、人の義を神の義に優先してしまうという、根本的に誤った判断をしてしまう危険があるということです。要するに、それが罪(的外れ)であり、罪にとどまり続けるならば、
私たちの霊的な防衛線に穴があき、悪魔の介入を許してしまうのです。
悪魔の介入はしばしば以下のようなプロセスをたどります。
他人の不正に対して怒る。怒りは正当なものだと思う。怒っている自分は正しいと思う。相手は間違っていると思う。正しい自分は間違っている相手より上の立場にいると思う。相手を見下す。怒りが増し加わる。以下繰り返し。
このようにして、怒りが増し、自分が上、相手が下という構造が強化されます。しかし、このプロセスは終わりがないので、自分が正しいといくら言い続けても、決して満足することはありません。自分の中では病的なプライド、相手に対しては破壊的な衝動が増していくだけです。これが悪魔の喜ぶことであるのは明らかでしょう。
マタイ福音書で語られている、相手を「能無し、ばか者」と呼ぶのは、このプロセスが進行していることの現れです。ですから、私たちは「怒り」そのもの以上に、その「怒り」を道具として人を破滅させようとしている悪魔の働きに気づき、拒否しなければなりません。損得で言えば、「この怒りを通して得をするのはだれなのか」ということです。自分も相手も得はせず、悪魔だけが喜ぶのです。
もし「6秒ルール」を使うとするなら、ただ気をそらすよりも、このことに思いを向けるべきでしょう。
もちろん、これは不正を放置すべきだということではありません。不正は正すべきです。ただし、人の怒りを土台とした「人の義」によらず、神の義を求めることでなされるべきです。
問題は、何が「神の義」なのかということです。人の根本的な誤りは、人間の義に過ぎない自分の主義を「神の義」であると主張することです。
一神教の世界では安易に「神の意志」「神の正義」という言葉を持ち出します。そうでない世界では、「神」を持ち出さずに「主義」「常識」などを掲げます。いずれにしても、なにかの基準を絶対化して相手を屈服させようとするのです。
しかし、福音は「キリストの十字架」こそ神の義であると告げます。十字架によって、怒る代わりに怒りを受け、ご自身の威光を見せる代わりに犯罪人の侮辱を受けた方が神の子であることが現れました。
そして、このお方は復活し、今も生きて働いておられるのです。
―考察―
1.どんな時に怒りを覚えますか? そのことを通して、どんなことに気づきますか?
2.どのような方法で怒りをコントロールしていますか?
3.他人の「不当な怒り」に対して、どう対処したらよいでしょう?