礼拝メッセージ要約

202113

箴言252

「プライバシー」

 

「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」(箴言252節)

「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは,何事をもなされない。」

(アモス37節)

 

前回「伝道者の書」で読んだように、良い日もあれば悪い日もあります。究極的には、どれも神のなさることです。それは、人が未来を知ることがないようにするためだと言われています。

しかしそれは、「結局なるようになるしかない」という運命論ではありません。「見よ」と書かれているように、私たちは「何か」を見なければなりません。前回、「苦難の日」として「十字架」に目を向けました。

 

すべてのことが究極的には神に由来するということは、神が神である以上当然ではあります。同時に、神には人が知ることができない領域があるというのも当然です。

人に知られない領域とは、現代の表現では「プライバシー」ということです。

プライバシーは、私秘性とも言われ、「私には他人には知られない私だけの領域がある」ということです。

言い換えれば、そのような「私の秘密」を持てる存在を「個人」と呼ぶことができるということです。

これは、法的には人格権とも言われ、基本的人権のひとつとされています。

 

ただし、プライバシーの価値は、必ずしもすべての社会で認められてはいません。

つまり、「個人」というものの存在が許される社会ばかりであるとは限りません。

民主的な社会というのは、それが最大限尊重されるべきであるという価値観を共有している社会です。

しかし、共産主義や全体主義の国家、部族的なつながりが強いムラ社会では、そうではありません。

ただ、民主的でない方が、少なくとも短期的には社会が効率的に運営できるということもあります。

コロナ禍のなかで、私たちはそのような現実に直面して悩んでいます。

いずれにしても、プライバシー、つまり、個人の価値が問題となっているのです。

 

では、神はどうでしょうか。神にプライバシーがあるでしょうか。当然あります。

神が「おひとり」である以上当然です。神は人ではありませんから「個人」ではなく「個神」と書くべきなのかもしれませんが、いずれにしても、「唯一の神」というのは、「ひとつ、ふたつなどと数えることができない」ということだけでなく、「個である神」ということです。

つまり、神は単に宇宙の原理や、無限の精神、知能などといったものではなく、「プライバシーを持つ」お方であるということです。

 

いや、そもそも神にプライバシーがあるからこそ、人にもプライバシーがあるのです。

言い換えると、「ひとりの神」に似せて造られたからこそ、人は「個人」であり得るということです。

「事を隠すのは神の誉れ」とは、神のプライバシー、それが神の尊厳だということで、考えてみれば、あまりにも当然のことです。

しかし、どちらかと言えば、人の関心は、神のプライバシーよりも自分のプライバシーでしょう。

それは、他人との関係だけでなく神との関係についても言えます。

自分のすべてが神に知られているのは、善人には朗報ですが悪人には脅威でしょう。人が罪人である以上、恐れるのは当然ですが、そのような「裁き」への恐れだけの問題ではありません。

神の前では自分のプライバシーがないということは、自分がひとりの人間、個人としての存在ではありえないのではないかという密かな恐れでもあるでしょう。

 

自分が良くてもせいぜい「しもべ」、それもその他大勢のなかの一人に過ぎない存在、悪く言えば単なる神の道具としてしか感じられないとしたらどうでしょう。

実際、時にキリスト教は、一方で「神が愛してくださる」ということを説きながら、同時に人間の無を強調することによって、人々に混乱を与えてしまいます。個人の尊厳を説く近代人が宗教を嫌う理由の一つもそこにあります。ですから私たちは「プライバシー」という聖書の中心メッセージをしっかりと理解しなければなりません。

 

出発点は神です。神にプライバシーがあるということ、すなわち人には明かさないことがあるということを認めること、それが神の尊厳を認めるということです。言い換えると、神を賛美するということです。

「良い日」だけでなく「悪い日」にも賛美するというのは、ひねくれているからでもなく、強いられているからでもなく、あるいは、精神衛生上効果があるからでもなく、神の尊厳を認めるからです。

その神が、ご自身のかたちに似せて「ひとりの人」を造られました。「神のかたち」については色々な解釈がありますが、「ひとり」という事に関してであれば、「プライバシー」を持つ存在と言えます。

 

神はなぜ食べてはいけない実をわざわざ置いたのかと言われますが、それは神のプライバシーにかかわることです。禁断の実を食べ、隠れた人に向かって、神が「あなたはどこにいるのか」と問われましたが、全知の神も人にプライバシーを認めておられるのです。すなわち人格的な存在として扱っておられるということです。

ただし、ここで大切なポイントがあります。プライバシーがあるというのは、人が孤立しているということではないということです。結論を言えば、エデンでの神と人のように危機的な状況であっても、そこに「対話」が成立するということです。

 

神は事を隠されますが、同時に人が事を探ることも求められます。それどころか、預言者を通して、その隠れたこをも知らされるのです。ここで「事」というのは、出来事と言葉の両方を意味しています。

ポイントは、人が探ることと、神が現すことは別々のものではなく、一つの事柄だということです。

神のプライバシーは神が明かさない限り誰にも分かりません。では、なぜ探るのか、それは人にプライバシーがあるからです。言い換えると、人が「個人」であって、探ることも探らないこともできるからです。

神は神、自分は自分と割り切り、お互いのプライバシーを尊重して別々の生活をするという人もいるでしょう。もちろん、それは究極的には幻想であり、そのようなことは本来不可能ではありますが。

 

真にプライバシーを尊重するというのは、それとは異なり、お互いがあくまでも「個」であるからこそ、それを尊重しつつ自らの内面を表現し、コミュニケーションをとっているということです。

「対話」は、相手と同化したり、自分を相手に同化させるための手段ではありません。反対に、それぞれが「個」として、神の似姿に変えられていくプロセスの大切な一部なのです。

 

―考察―

1.便利な世の中のためには、プライバシーは制限されるべきでしょうか?

2.事を隠す神を賛美するとすれば、語りかける神にはどう応答したらよいでしょうか?

3.他人のプライバシーを尊重するというのは、具体的にどのようなことでしょうか?