礼拝メッセージ要約

202631日「ベルゼブル論争」

 

マルコ福音書3

20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。 

21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。 

22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。 

23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。 

24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。 

25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。 

26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。 

27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。 

28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。 

29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」 

30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。

 

大衆がイエス様を熱狂的に支持している中で、律法主義者だけではなく、イエス様の身内でもイエス様を理解できない人がいました。わざわざ連れ戻そうとしたくらいですから、かなり深刻だったでしょう。反対する人々は、イエス様が悪霊にとりつかれていると主張していました。イエス様に霊的能力こと自体は否定できません。しかし、霊的能力がそのまま正しいのかどうかは別です。私たちは、福音を知っているため、これらの反対者たちが単に頑なだと考えるだけで終わってしまう可能性があります。しかし、彼らの頑なさの本質を見極めることが必要です。

 

まず、「霊を見分ける」こと自体は必要であるばかりか、聖書自体が要求していることです。世の中には、霊的な力と称するものはたくさんありますが、何でも受け入れてしまうのでは、良くて迷信、悪ければカルトに陥る危険があります。とは言え、霊自体を客観的な方法で判別することはできません。霊的な力を発揮する預言者について、聖書には、預言者の結ぶ実によってその真偽を見分けるしかないと書いてあります。つまり、霊的現象それ自体ではなく、それを行う人の有様から是非を判別するということです。イエス様を攻撃する人も、イエス様の霊力の存在は認めても、彼が正当な人物とは認めないという立場です。

 

それにしても、イエス様の気が狂っているとか、悪霊にとりつかれているとまで言うのは尋常ではありません。もちろん、精神疾患によって意味不明な言動をしているというような事態ではないのですから、やはり、安息日を中心とした律法体制そのものを攻撃しているかのように思われたのでしょう。ユダヤ律法に限らず、その社会の基盤となっている価値観や制度を根底から揺るがすような人物に対して徹底的な排除が行われるのは普通のことです。律法主義者にとっても、もはやイエス様は律法をベースとした議論の土俵に乗せることの不可能な、完全なアウトサイダーとなっていました。しかし、そのような人物が、異常なまでの霊的パワーを発揮していかことから、この事態を否定する理屈を見つけなければなりませんでした。そこで、イエス様には最上位の悪霊がついていて、それが回りにいる下位の悪霊を追い出しているという話を持ち出したのです。

 

それに対してイエス様は、サタンの内戦のような想定は無理だということから、彼らの主張を退けられました。ただしこの点には慎重な検討が必要です。まず、このことから、すべての悪霊追放は神の業であるという結論を出すのは行き過ぎだということです。霊的パワーを発揮する偽預言者の話は聖書にいくつもあります。ですから、単に一人の人物から悪霊が出て行ったからと言って、それが神の業であると断定することはできません。問題は悪霊が出て行った結果でしょう。つまり、どのような実を結ぶのかということです。それは、身体の癒しについても同じことです。イエス様は神の国(支配)を広げておられ、その中で霊の解放や癒しも実現します。解放や癒し自体がゴールではなく、神の国の要素でなければなりません。ですから、結局イエス様の言動全体から判断しかないのです。そして、イエス様にあっては、神の国の前進は律法の奴隷からの解放ですが、それが反対者にとっては律法破壊という狂気の沙汰であるという、根本的な対立に帰着するわけです。

 

ですから、重要なのは、イエス様の業はサタンの内部争いではないという一点であって、あらゆる霊的現象の説明とするのは拡大解釈だということです。それに加えて、家の略奪という不可解な例があげられていますが、文脈から言って、この「強い人」はサタンのことでしょう。サタンの国を滅ぼすには、末端の悪霊を追放するのではなく、そもそもサタンそのものを滅ぼす必要があるということです。この「サタンそのもの」の話は、決定的なことがらとして次第に明らかになってきます。この決定的なことから見れば、現状の悪霊追放自体はまだ本筋ではなく、あくまでも前触れであるという点が重要です。

 

このような文脈の中で、いわゆる「聖霊を冒涜する罪」という、古来議論の絶えないテーマが登場します。どんな罪も赦されるが、唯一の例外があって、それが聖霊を冒涜する罪であるという言葉です。「どんな罪」には神を汚すことも含まれています。また、他の福音書では、神だけでなく神の子(キリスト)を冒涜することも赦されると書いてあります。例外は文字通り「聖霊に冒涜すること」だけです。まずこの状況をシンプルに理解しましょう。イエス様がこのように言われたのは、イエス様が悪霊につかれていると言った人々に対してです。イエス様という「人物」に対して何を言おうと、今日風に言えば名誉棄損とはならないが、そこで実現している事態は神の国(支配)なのだから、それを拒絶することは赦されないということです。これは分かりやすいですが、もちろん論理的な説明ではありません。そこで実現している事態がそもそも神によるのか悪霊によるのかということが争われているのですから、それを理屈で決着させることはできません。

 

おそらく、ベースはこのシンプルなやりとりがありながら、そこから、より大きなテーマに話がつながっていったのでしょう。つまり、「永遠に赦されない」という、その現場だけではない、より神学的な話になり、それが様々な議論を呼んできたのです。この議論は複雑で、結局「聖霊に対する罪」が何なのかを具体的に特定することはできません。というのは、神やキリストに対する罪は赦されるからです。これを、三位一体論のような神学で解釈するのは困難です。しかし実態としては、ある意味当たり前のことでしょう。パウロをはじめ人々は、そもそも神とキリストを汚していた状態から、聖霊によって救いに導かれたのですから。その意味では、聖霊を汚す罪とは、聖霊が救おうとしている業を妨げることと言えます。それが具体的に何なのか特定できないのは、目の前にイエス様がいる場合はともかく、聖霊の働きがきわめて多様だからです。とは言え、聖霊の働きにも方向性はあります。そして、それを邪魔する大きな要因が律法主義であるというのが、マルコ福音書(あるいはパウロ書簡)のテーマです。神やキリストを汚すことをクリスチャン以前のことに限定するのは、分かりやすい解釈ではあります。そして、クリスチャンが「自分は聖霊を汚しているのだろうか」と怯える必要もありません。しかし同時に、クリスチャンであっても律法主義がいかに重大な問題であるのかを認識することは絶対に必要なことです。私たちは、律法ではなく聖霊によって立ち、また歩むのです。