礼拝メッセージ要約

20262月22日「大衆と弟子たち」

 

マルコ福音書3

それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。またユダヤから、 

エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。 

イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。 

10 それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。 

11 また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。 

12 イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。

13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。 

14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、 

15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 

 

今回の箇所では、まずイエス様が大衆からの絶大な人気を得ていた様子が描かれ、十二弟子の選任の記事が続きます。二つのシーンの対象がテーマとなります。まずは湖のシーンです。イエス様は行く先々で群衆に取り囲まれていたと思われます。それでイエス様は湖(直訳では海)に退かれました。しかし人々はそこにも押し掛けたのです。それも、地元の人たちだけではなく、エルサレムを含む遠隔地からもやってきたとあります。これは尋常のことではありません。当時のことですから、うわさがうわさを呼んで評判が拡がったのでしょう。彼らは、「イエスの行っていることを聞いて」押し寄せました。行っていることとは、病気の癒しと悪霊の追放でしょう。そのようなことを行う「ヒーラー(治癒を施す者)」は他にもいたようですが、おそらくイエス様はその中でも圧倒的な「パワー」を持っていたのでしょう。そのことを知った人々が彼のもとに駆け付けたことは自然なことです。

 

人々が、特殊なパワーを持った人に引き付けられるのは、古今東西普通のことです。そのパワーが宗教であれば教祖となり、政治であれば権力者となります。あるいは、すぐれた手技を持つ外科医を慕って全国から患者が集まることもあるでしょう。困難な状況にいる人、苦しんでいる人が「藁をもつかむ」心境で「力ある存在」にすがること自体は自然なことです。もちろん、イエス様もそのことを否定はされませんから、多くの人を癒し、悪霊を追い出されました。強い者が弱い者を助ける所までは問題ありません。しかし、真の問題はそこから始まります。それは、助けられる側の「弱い者」が、悪い意味での「強い者」に転化するということが起こるからです。

 

まず、群衆がイエス様の所に「押し掛けてきた」ことです。列に並んでもらうとか、整理券を配布するどころの話ではなく、身の危険を感じる程の混乱だったことでしょう。今日でも聖地巡礼や大きなイベントで負傷者がでるほどの混乱がおきることがあります。いわゆる大衆心理は、危険な行為を誘発する可能性があります。そればかりでなく、それが暴力的な力を発揮することさえあるのです。それは、目に見える有形の行動に限らず、言論によってもなされます。現代は、それがデジタル技術によって大規模に行われるのは周知のことがらでしょう。SNSによる情報拡散によって、一挙に世論が傾いていく様子を私たちは見ています。もちろん、デジタル以前であっても、例えば戦前もっとも民主的と見られていたワイマール共和国が選挙を通してナチスドイツに転化してしまったことなどは良く知られています。民主主義は「不完全だがマシな制度」と言われるのは、大衆心理の危険に対して脆弱性があるからでしょう。

 

イエス様の元に押し寄せた群衆は基本的には「困っている助けが必要な良い人たち」です。では彼らの抱えている危険性とは何でしょうか。それは、まさに今日同様、誤った情報拡散をすることです。マルコの記事を現代風にしたらこんな感じでしょう。イエス様が一人の病人に触れるとあっという間に元気になるショート動画が投稿されます。再生回数がどんどん伸び、「いいね」と再投稿が急増し、あっという間に知名度が拡がります。イエス様の行く先もSNSにアップされるので、そこに人々が押し掛けるという構図です。悪霊もひれ伏すというのは、例えばイエス様を批判していた人(アンチ)たちも、「目が開かれ」、見解を百八十度変えるというような状況でしょう。このような話は容易に想像できます。さて、彼らはどのような情報を拡散しているのでしょうか。問われているのはまさにそのことです。マルコ福音書のテーマのひとつに「メシヤの秘密」があることはこれまでも読んできました。メシヤであることが秘密なのは、人々の思う「メシヤ」と真のメシヤが異なっていることが一つの理由です。もう一つの理由は、悪霊たちのメシヤ理解が人間のそれよりも正確ではあったものの、彼らの証言に権威が認められないことです。いずれにしても、この時点で「メシヤ」が秘密である以上、人々が拡散する情報は真実ではありません。この誤った情報が急激に広まれば、真のメシヤの姿が隠されてしまいます。

 

このような状況下でイエス様は山に登られます。マタイ福音書には「山上の垂訓」として神の国のメッセージが語られるシーンもありますが、マルコでは例によって行動だけが記されています。言うまでもなく、「山に登る」のは、モーセがシナイ山に登ったことを連想させる行為です。モーセには十戒の板が授けられましたが、イエス様は石の板ではなく、十二弟子を選び遣わされました。この対比は重要です。前者は「石の板」で後者は生身の人間です。このことは、後に「文字と霊の対比」、「石の神殿とキリストのからだの対比」などのテーマに拡がっていきます。石と人間の対比は明らかでしょう。石には十戒という文字情報が記されていて、それが民全体に伝えられて規範となりました。人間の場合は、その人の存在そのものが「情報」なのですが、それは無限の細部を持っていて文字化(デジタル化)できません。イエス様が十二弟子に託したのは、文字情報以上のものです。

 

そのために、イエス様は第一に彼らを身近に置かれました。彼らの第一の使命はイエス様と深い交流をすることです。モーセの場合、山上で神は彼に友のごとくに語られたとありますが、まさに、弟子たちはイエス様と友のごとく親しく過ごすことが特権でありまた使命なのです。その結果として、彼らは遣わされ、福音宣教を行い、悪霊を追い出すのです。実はここに、メシヤの秘密に関わる深い問題があります。この秘密抜きにこの事態を解釈するとこうなるでしょう。イエス様の宣教は急拡大していたので彼ひとりでは追い付かなくなった。そのため、弟子たちを訓練して派遣することにより、さらなる活動の拡大を目指した。弟子たちは、その準備として、まずはイエス様のそばで訓練を受け、それから出かけた。だいたいこのようなものでしょう。これは、一連の宣教活動とそれに対する大衆の反応が正しい方向に進んでいるので、人員を増強するという話です。しかし「メシヤの秘密」は、まさにそのような単純な見方を否定しているのです。

 

 

この後、実際に弟子たちは神の国を延べ伝え、悪霊さえ追い出し、イエス様の弟子としての実力を発揮します。しかし、そのような彼らがやがてつまずき、ついにはイエス様を裏切り、見捨てることになるのです。イエス様が直接選ばれた十二弟子の名前が挙げられていますが、それが何を意味するのかを私たちは知っています。イエス様の宣教は、一直線の大衆運動としても、少数の弟子訓練の活動としても、やがて否定的なものへと転化していきます。すでに、律法学者たちはイエス様を葬り去ろうと決心しました。一見華々しい宣教活動も、十字架への不可欠なステップなのです。