礼拝メッセージ要約
2026年2月15日「決定的な対立」
マルコ福音書3章
1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。 3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。
ここまで、イエス様と律法主義者との対立はどんどん深まってきました。ここでついにそれは決定的になります。律法主義者たちが、イエス様を殺すことを決意した瞬間です。今回はこの時の様子を見ていきましょう。イエス様はさまざまな場所で神の国の福音を語っておられますが、会堂での活動も続いていました。ある時、会堂に片手の麻痺した人がいました。すると、そこにいた人たち(おそらく律法主義者とその信奉者たち)は、イエス様が癒しのわざを行うかどうか監視していました。癒しの能力の有無を見極めるためではありません。癒す意志があるかどうかを見るためです。能力についてはもはや議論にはなりません。すでに、さまざまな癒しが行われており、先日も、屋根からつりおろされた人の麻痺が癒されました。癒し手としてはイエス様の地位は確立されていたのです。
問題は、その能力をどう使うかです。使い方が律法にそったものなのかどうかが問題です。この人は安息日でしたから、一切の労働は禁止されており、その中には癒しも含まれていました。ただ、緊急の救命行為は許されていましたが、手の麻痺を治すことには緊急性が認められませんでした。ですから、イエス様がここで癒しを行えば、当然(彼らからすれば)律法違反となります。イエス様もそのことは認識したおられたはずですから、あえて癒しを行うならば、それは律法主義者への挑戦であり、律法主義社会を破壊する行為と見なされました。もちろん、イエス様はここで妥協することもできたでしょう。緊急性がないのならば、翌日に癒してあげることも不可能ではありません。善行でも時と場所をわきまえるべきだという考えは、道徳的には正しいでしょう。しかし、論点はそのような人道的行為のやり方ではありません。安息日に代表される律法システムそのものが問われているのです。ですから、このような状況下ではイエス様の選択は二つにひとつです。「あえて」安息日に癒しを行って律法主義と決裂するか、それとも癒しを先延ばしにして、律法主義の世界に留まるかです。
イエス様の言葉は明確です。安息日にすべきなのは、善か悪か、生かすことか殺すことかという二者択一の選択を迫っています。もちろん、この問いだけに答えるのは容易です。善と生を選ぶことに異論のある人はいないでしょう。しかし「彼らは黙っていた」のです。それは「問だけ」答えることができない事情があったからです。言うまでもなく、それは律法の規定との関係です。この事情をよく理解することが必要なのは、私たちも同じ状況に陥る可能性があるからです。いわゆる「大人の事情、諸般の事情でシンプルな良し悪しに徹することができない」ことは日常的に発生します。この「大人の事情」とは、ここでは律法の規定です。法律におかしな条文があることはありますが、「悪法も法」という面もあります。全体としての法体系を維持しなければ社会の秩序は守れません。その上で、おかしな条文は少しずつ修正していくのが常道でしょう。今回の箇所で言えば、緊急性の要件を緩和して、片手の麻痺も安息日の要治療リストに加えるというようなことが考えられます。そのような手続きなしで物事を進めたら秩序の維持は難しくなるでしょう。何でも「これは良いことだ」という理由で許されるとなると、そもそも本当にそれが良いことなのかどうかも争われることになってしまいます。このような諸般の事情があるのはまず理解しなければなりません。そして、この「大人の事情」をイエス様にも適用するならば、まずは彼にも律法学者と律法の「適用」についての討議が要求されるでしょう。
これが律法の世界であり、それ自体は大切なものです。現代社会の政治決定にも是非必要とされています。しかし、それにもかかわらず、イエス様が彼らに対して怒りました。福音書でイエス様の感情を記している箇所は多くはありませんので印象的な場面です。この感情は、単なる怒りではなく嘆きでもあります。それは、彼らの律法解釈に対してではなく、心のかたくなさに対するものでした。その「かたくなさ」とは、理解の不足といった知性の問題ではなく、イエス様を訴える材料を探しているという意志に関わることです。もうすでに、彼らはイエス様を訴えることを決めていて、後はタイミングの問題だけだったのです。それにしても、もうこの段階で「十字架」が実質的に決定していたのは驚くべきことです。私たちはここに、それ自体は良いもので社会に必須である律法が、いわば宿命的にイエス様を排斥するという、本質的に二律背反である事柄を理解する必要があります。律法主義者を、融通の利かない単なる頑固者と見るのでは不十分なのです。
しかし、これが本質的な二律背反であるからといって、彼らの立場を正当化することはできません。なぜなら、実際問題彼らはイエス様を殺そうとするからです。イエス様の癒しはあくまでも徴です。すなわち、イエス様は「いのち」の側におられることの現れです。それに対して、彼らは殺意を持っています。いのちと死という、正反対の実を結ぶのですから、イエス様が正しいことは、いわば論より証拠であると言えます。結局、物事の本質は、その実から判断されるのです。パウロはこのことを「生かす霊」と「殺す文字」との対比として表現しています。この文字はもちろん律法のことです。そして繰り返しますが、文字(律法)自体は良いものなのです。しかし、その文字の世界に閉じこもり、神の霊の働きを排除しようとするならば、その行き着く先は死なのです。ですから、ここでの「かたくなさ」とは、それ自体では良い「文字」によって、神の霊を妨げようとする心のことです。
この「かたくなさ」は、個人の性格や政治的、宗教的確信の強さと同じではありません。もっと、歴史的、世界的な要素を持っています。ですから、パウロはあえて「神が彼らをかたくなにされた」と語ります。もちろん、このような言い方は、「かたくなさ」が運命であり、当人の責任ではないという主張を誘発します。パウロはローマ書で神の主権を強調して、そのような主張を退けていますが、単純に納得できる理屈を見つけるのは難しいでしょう。しかし、理屈はどうであれ、厳しい現実に変わりはありません。福音書は理屈抜きに、この現実を描いています。
イエス様が癒しを行うのを確認した彼らは、イエス様を葬ることを決断し、その計画を立て始めました。ヘロデ党の者と相談したとありますが、彼らが具体的にだれであったのかは明らかではありません。ヘロデという名前から何らかの政治的なグループであるとすれば、政治犯として葬ろうとしたのかもしれません。いずれにしても、律法主義者が直接手をくだすことはできなかったのでしょう。一つには、イエス様は民衆の人気を得ていたからです。これは、十字架の時まで続くテーマです。もちろん、民衆の恨みを買うのが怖いとか、争乱を引き起こすのがまずいとか、理由はいろいろありました。それでも、彼らの律法の方が無知な民衆の感情よりも正しいと確信していたでしょう。いずれにしても、律法主義者たちは、ある種の「政治的判断」をするために、全力で頭を使っていました。人は、悪をなすときに、恐ろしいほどの集中力と能力を発揮することがあります。そして、その時本人は真剣に「善」をなしていると思い込んでいるのです。このような状況を「悪魔的」と呼べるでしょう。すなわち悪魔が人を通して死をもたらすという罪の暗黒の世界です。救いとは、そこからの救いなのです。