礼拝メッセージ要約

20262月8日「安息日の意義」

 

マルコ福音書2

23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。 

24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」 

25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。 

26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」 

27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。 

28 人の子は安息日にも主です。」

 

イエス様と律法主義者との対立は激化していきます。さまざまな論点はありますが、その中で最重要なのは「安息日」論争でしょう。今回の箇所で、いよいよそれが表面化します。安息日とはユダヤ律法による規定で、週の7日目(最後の日)です。今日のカレンダーで言えば、金曜日の日没から土曜日の日没にあたります。その間には「労働をしてはならない」という規定があり、十戒にも含まれる神聖な掟です。(違反は偶像礼拝は殺人その他と同等の厳罰対象です)。ユダヤ教徒にとって、安息日を守ることが、ヤハウェに選ばれた者の証であり、破るものは民から排除されるべきものです。安息日に攻撃を受けても応戦せず壊滅したという歴史もあるほどです。いわばユダヤ人(ユダヤ教徒)のアイデンティティーと言ってもいいでしょう。

 

この戒めを律法(法律)として受け取るなら、禁止されている「労働」とは具体的な何なのかを決めなければなりません。適応すべき事例は無数にあり、時代と共に変化していくのですから、適応の具体例は無限に増加していきます。現代でも、エレベーターの行先ボタンを押すのは労働なので、安息日には、エレベーターは各階停止の運用をすると言われるほど、適応事例に際限はありません。今回の箇所では、弟子たちが道中、穂を摘んでいたことが問題視されました。穂を手で摘むこと自体は合法ですが、それは労働と見做され、安息日には禁止されていたからです。

 

この非難にたいしてイエス様は、ダビデと連れのものが、本来祭司だけが食べるべきパンを食べた事例をあげて反論されます。(無理やり食べたのではなく、祭司から、いわばお下がりを頂戴したのです)。これは、それ自体は、救命に必要な行為は、律法を多少拡大解釈してでも許容されるという、律法自体の運用の話です。しかし、イエス様は、そのよう律法運用の議論をしたいのではありません。論点は安息日とはそもそも何なのかです。結論は明確です。安息日は人間のためにあるのであって、その逆ではないというものです。この「そもそも論」をしっかり理解することが大切です。

 

安息日の意味については、主に二つの説明がなされています。ひとつは出エジプトとの関連です。安息日は休養日であり、それは奴隷にも適用されるという画期的な内容です。それは単なる人道的配慮だけではなく、ユダヤ人自身もかつてはエジプトで奴隷であったことを思い出すためです。その奴隷であった民が、神の圧倒的な主権と力によって解放されました。イスラエルのアイデンティティーは、この出エジプトであり、それは神の主権とめぐみの現われです。安息日は、この奴隷解放の恵みを祝い、神に感謝をささげる日なのです。もう一つは、出エジプトより前に遡って、天地創造の出来事に由来するものです。すなわち、神は六日間で創造の業を完成し、7日目に休まれたことを覚えるものです。ですから、安息日は神の完全を賛美し、自らも神の中に安息を見出すべき時なのです。以上、どちらにしても、安息日は神の主権や恵みを告白し感謝する祝祭の時であるに違いはありません。その本来喜びの日であるはずの安息日が、律法化されると一転して、死刑を恐れながら固守すべき戒律のなってしまいました。自由と解放の祝日が、戒律の奴隷とんある日に変質してしまったのです。イエス様の「人が安息日のためにあるのではない」とはすなわち、人は律法の奴隷になってはならないということです。

 

これは、世俗主義の現代では当たり前のことに思われるでしょう。「宗教は人の役に立つべきであって、宗教の奴隷になってはならない」という考えは、少なくとも今日の日本では常識です。世界には厳しい戒律が支配している所もありますから、彼らよりも自由な社会であることを喜んでいるかもしれません。この「常識」には一理ありますが、注意しなければならいのは「宗教」という言葉が何を指しているかです。この言葉は様々な意味で使われるので、判断が難しいのです。「律法」も実質的に同じです。何度も繰り返しますが、律法とは共同体を形成する規範であり、それ自体は良いものです。そして、規範であって趣味ではない以上、そこにある程度の強制力が働くのは必然です。「規則など、私にとって役にたたないなら破ってもいい」という無法主義は成立しません。私たちは、無法に陥るのではなく、律法を完成して卒業しなければならないのです。卒業したら、自分は律法の下にではなく上にいることになります。それが律法から解放されたということの意味です。このように、律法は、いわゆる宗教に収まらない、様々な規範を含みますから、「自分は特定の宗教を信じない」という人であっても、それが全くの無法者でない限り、無関係でいることは不可能です。(もちろん、無法者は裁かれますから無関係ではいられません)。

 

ですから「律法からの卒業」は、律法をないがしろにすることではありません。当然、無宗教の世俗主義を賛美することでもありません。それは、良いもの(律法)を尊重しつつ乗り越えることです。ただし、それは努力によってスムーズに達成できるようなものではありません。むしろ、マルコが語るように、想像を絶する戦いと葛藤が起こるものです。ローマ書はその理由を明確に述べています。罪は律法をいう良いものを使って、ますます邪悪なものになるからです。福音書は、それを律法学者たちとの対決という形で描いています。対決になるのは、究極的に人が律法の上にいるのか下にいるのかが問われているからです。律法主義とは、人は律法の下に留まることが神を敬うことだというものです。ですから、律法の上にいくのは神を冒涜することになります。しかし、パウロも言うように、律法は後から入ってきたもので、アダムとイブの問題(すなわち罪の問題)はそれ以前からあるのです。律法そのものは罪を解消できません。

 

イエス様は「人の子は安息日の主です」と言われます。安息日の上にいるのです。この言葉を、「彼は神様で、安息日を制定したのだから上にいる」という意味に限定してはなりません。ここでのテーマは、人と安息日との関係なのですから。イエス様がご自身を「人の子」と呼ばれる時に、黙示思想的な天的メシアを指すと同時に、人間そのものも表している事がポイントです。人間は、本来律法の奴隷となるべきではありません。しかし、本来のあるべき姿を失った私たちは、自力で奴隷状態から脱する事ができません。そこで神は律法の上におられるお方を遣わし、私たちを救おうとされました。私たちは、このお方と繋がることにより、律法の奴隷から解放される事が出来るのです。この、キリストと共に自由になるのではなく、単に律法を無視し、無法地帯に落ち込むなら、その行き着く先は滅亡でしょう。これよりも分かりにくいのは反対のパターンです。すなわち、キリストと繋がるのではなく、キリスト教を律法の体系にして、その下に留まる、キリスト教律法主義です。律法の体系とは、例えば、安息日を土曜から日曜に移動し、礼拝スタイルを変えるというようなものです。これも、福音からの逸脱であることは言うまでもありません。安息とは、自分自身ではなく、全面的に神の恵みに頼るというあり方です。自分のわざを休むことは、もはや曜日に限定されません。私たちは、キリストと繋がる限り、真の安息に入っているのです。