礼拝メッセージ要約
2026年2月1日「断食論争」
マルコ福音書2章
18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。
21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」
前の箇所で、イエス様一行は取税人を始めとする「罪人たち」と食卓を囲みました。論点は結局、律法問題に行きつくことがわかりました。今回の箇所は、この「食事」について別の観点から論争になっています。食卓とは反対に「断食」がその争点です。ヨハネの弟子やパリサイ派の人たちは断食をしていました。もちろん、それは敬虔な宗教的態度の表明ですが、ユダヤ教の文脈では、具体的な意味を持っていました。すなわち、バビロン捕囚の悔い改め、神の裁きへの応答、義人のしるし、神の国を待ち望む姿勢などです。そのように断食は高い評価を受けているのに、なぜイエス様の弟子たちは行わないのかという問いです。ちなみに、質問はイエス様の弟子たちに関するもので、イエス様本人ではありません。しかし、質問はイエス様も含む、いわば「イエス一団」の習慣に関するものであると解してよいでしょう。
もちろん、イエス様ご自身が断食そのものを否定するということではありません。実際、荒野での試練において断食をされています。ですから、弟子たちに対しても断食否定を促していたとは考えられません。また、20節には、彼らが再び断食する時が来ることも予告されています。ここで問題になっているのは、断食の持つ、霊的、精神的、肉体的な節制の意味ではないのです。悔い改めや祈りへの集中を否定するものではありません。それでは、何が問題になっているのでしょうか? それは、文脈全体から見えてきます。イエス様のメッセージは神の国(支配)が迫っているというものです。まずそれは、神の働きの場所が拡大するという形で現れました。すなわち、会堂からペテロのしゅうとの家の中へ。続いてその家の周りからさらには隣の町々へと拡がっていきました。取税人の話の直前では湖のほとりにも及んでいます。もちろんこれは話の始まりに過ぎません。この物理的空間の拡大と共に、新しい共同体を構成するグループも拡大しています。漁師たちから取税人、罪人といった、宗教的エリートと対極にある人々へと進んでいます。
このような、いわば「空間的」な拡がりと共に、ここから問題となるのは「時間的」な事柄です。空間と時間が揃うと、それは世界になります。その世界をどう捉えるのか、すなわち、どのような世界観を持っているのかが問題なのです。結論を先に言えば、それが律法の世界なのか、それとも恵みの世界なのかという事で、ローマ書で徹底的に論じられている問題でもあります。ただ、恵みの世界に入る前に、時間、あるいは時代という、いわゆるカイロスのことに触れなければなりません。
なぜ断食をしないのかという質問に対するイエス様の答えは、今はその時では無いと言う、時に関するものでした。しかもそれは、今日や明日という暦の事ではなく、「花婿と共にいる時」という、特別な質を持った時間を指しています。もちろん、イエス様はここで婚礼の習慣について述べているのではなく、花婿という比喩で旧約で予告されていた「時」を示しておられるのです。すなわち、イザヤ62章やホセア2章にあるような、神とイスラエルとの「婚礼」の比喩が背景にあります。
この「神とイスラエルとの婚礼」を下敷きにして、新約ではキリストと教会との婚礼が語られています。ですから、ここでの花婿はキリストを暗示していると解釈してよいでしょう。そして、この「婚礼」はユダヤ教の文脈では「終末の時(カイロス)」、すなわち神の国の到来と結びついています。つまり、イエス様はご自身の存在自体を、「終末(神が支配する新しい時代)」の到来であると言われているのです。前に、悪霊が「まだその時ではないはずではないか」と訴えたことと同じで、今のこの時代の只中に新しい時代が侵入していることを指しています。まさに神の国は近づいているのです。しかし、この「神の国の到来」はまだ途上です。ある種の前兆のようなものであって、十全な姿で現れるには、これから大きなステップを踏まなければなりません。言うまでもなく十字架です。
20節には、花婿が取り去られる時がくるとあります。強い表現で、弟子たちの前からイエス様が取り去られることが予告されています。その時には、花婿が来る前にもまして、その悲しみの中で断食するでしょう。この「十字架の予告」は、これから何度も繰り返されることになります。もちろん、私たちは十字架の後に復活があることを知っていますが、弟子たちにそれが明かされるのはまだ先です。このあたりの消息は、たとえば、ヨハネ福音書では「今の悲しみと再会の喜び」というように表現しています。このように、この断食論争は、断食そのものについての議論と言うよりは、断食を例にとって、イエス様の降臨から受難という、神の国のわざの進展を語っているのです。ですから、元来、この「再び断食をする」悲しみの日々は、復活あるいはペンテコステまでの短い期間を指していたと感がえられます。強調点は、主とともにいることのできる喜びと十字架の意義です。
しかし、1世紀末以降、次第にキリスト教という宗教の形になるにつれて、今も「再び断食をする時代」であると考えられるようになりました。主は生きておられると言っても、今は天におられて見えないので、見えるようになる時(再臨)までは断食をするという主張です。このような考えがでてくるのにも一理あるでしょう。それは、神の国が「すでに来ている」ということと「いまだ完成していない」という2重構造があるからです。再臨を待望して祈る中に断食が含まれることも否定はできないでしょう。ただし、あくまでも「すでにキリストとの相互内在にある」という根本がしっかり確保されていることが条件です。花婿と共にいるという現実がなかったら、単に「未来のユートピアを夢見て今は節制する」だけの、よくある宗教のひとるになってしまうでしょう。相互内在やキリストにつぎあわされていることなどについては、ローマ書で詳しく読んできました。
このあたりの消息をマルコ福音書は、「新しいぶどう酒と新しい皮袋」という象徴的な表現で語っています。結論を先取りすれば、新しいぶどう酒は聖霊の働きを指しています。それはキリストとの相互内在と同じことで、神の支配の現れに他なりません。この聖霊による新しい現実を私たちがどう受け取るのかが根本テーマですが、マルコ福音書のこの時点では、それは新しい皮袋(私たちの受け取り方)とだけ言われていて、それがどのようなものなのかは明らかにされていません。ただ、その新しい皮袋と対比されている古い皮袋が何であるのかは明白でしょう。言うまでもなく、律法主義によって成立しているユダヤ世界です。そこに聖霊を加えて律法主義社会を改良するということはできないのです。そんなことを試みても、それは律法自体を役立たずにしてしまうだけです。繰り返しますが「律法はよいもの」であり、公正な社会の基盤です。それを霊的熱狂やオカルト的信仰によって崩してはなりません。しかし、それとは異なる、真の意味で霊的な「聖霊の働き」があるのです。それは、古い皮袋のような、特定の目に見える形をもってはいないでしょう。ヨハネ福音書にあるように、聖霊は風のごとく、その思いのままに吹くからです。新しい皮袋が新しいのは、その自由な働きに応じて、どこまでも柔軟にあり方を変えていけるからです。