礼拝メッセージ要約

2026113日「中風の人の癒し〜3」

 

マルコ福音書2

数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。 

それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。 

そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。 

群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。 

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。 

ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。 

「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」 

彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。 

中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。 

10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、 

11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。 

12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

 

「中風の人の癒し」について続いて読んでいきます。イエス様は、ご自身が「人の子」として罪を赦す権威があることを示されます。律法学者が心の中で「神でないものが罪をゆるすことなどできない」とつぶやいていたのを見抜き、イエス様は行為によって権威を示されました。これは、「メシヤの秘密」を保っておられたイエス様としては珍しいことです。もちろん、そこには重要な意味があります。メシヤの秘密が必要なのは、人々がメシヤについての先入観を持っていたからです。それは政治的な解放者や奇跡を行う古の預言者でした。先入観と言っても、律法と預言者を機械的に読む限り当然導かれる結論でした。問題はそれが単なる神学論争で終わることのない、より重大な事態に発展することです。私たちはそれが十字架であることを知っていますが、今は先を急がず、そこに至るまでの一歩一歩を見ていきましょう。

 

イエス様は罪を赦す権威を持っていることを示すために中風の人を癒しました。まず、背景となる世界観では、罪と重大な病気は結びついていました。(現代でもそのような考えはあるでしょう)。そのような「罪」とは、具体的な法律違反に限らない、「何かはわからないが大きな罪があるはずだ」という漠然としたものです。漠然としているからこそ、それは扱い難いものでもありました。このいわゆる「因果応報」の考えは、たとえば「ヨブ記」の議論にも表れています。(もちろん、ヨブ記は、その議論の限界を扱っているのですが)。さらにやっかいなのは、先祖の罪も関係する可能性があることです。律法に、罪を犯した者への呪いは後代にも及ぶとあるからです。(しかし、エゼキエル書ではその考え方を否定しています)。そして、その呪いの結果が重大な病気であると考えたのも無理はないでしょう。実際、呪いの結果として、飢饉、戦争、疫病などが記されていたのですから。(中風は疫病ではないという医学的な議論は置いておきましょう)。このような「拡張された因果応報」の世界は、日本的に言えば、「こんな病気になるのは、先祖の祟りではないか」というようなものでしょう。

 

このような考えは、一方では根拠のない決めつけによる迷信ですが、他方では、時間空間を超えた複雑な因果関係によって動いている世界の捉え方でもあります。「罪」を、具体的な規則違反に限定せず、「的外れ」という新約の用語からすれば、社会にも家族にも様々は的外れがあり、それが地域や世代を超えて影響を与えている状況を指すことができます。遺伝的な疾患も、いわゆる犯罪ではなく、物理的な的外れ状態と言えるでしょう。このように考えると、癒しと罪の赦しは無関係とは言えなくなります。それは、個人の罪に対する刑罰や報復の話ではなく、個人や社会を蝕んでいる「的外れ」の状況を作り替え、人々に真の自由を与える「全き救いと解放の出来事」なのです。その意味で、イエス様の行為は意味を持っていました。そして、おそらく、そこにいた一般の人たちは、その出来事を見て単純にイエス様の権威を認めたことでしょう。

 

しかし、一般人はともかく、律法学者たちは簡単には引き下がりません。仮に病と罪がリンクしているとしても、癒しがそのまま罪の赦しと直結するとは言えないからです。実際、癒しを行うものは他にもいましたし、医者もいたわけです。ですから、癒されたからといって必ず罪が赦されたとは考えなかったでしょう。また、病と罪が繋がっていて、赦しの結果癒しがあることは認めても、赦しはあくまでも神の専権事項であり、癒しを行う者が罪も赦せると認めません。ですから、イエス様がここで何をなそうとも、議論は平行線をたどるのは必然でした。そして、この「平行線」が十字架へとつながっていくというのがマルコ福音書のメッセージです。ローマ書で言えば、律法から十字架を通して恵みに飛躍していく道です。ですから、この段階で、律法学者たちを、イエスの神性を素直に受け入れない頑固で無理解な悪者として片づけては、肝心のメッセージを見逃してしまうことになります。

 

私たちは律法学者や宗教家たちがイエス様を十字架に送ったことを知っているので、単純に彼らを悪者として見てしまう危険があります。しかし一旦は彼らを善い人たちだと考える必要があります。というのは、パウロも書いているように「律法は聖であり善いもの」だからです。その律法をかたくなに守ることによって神に仕えているというのが律法学者たちの立場ですから、彼らも常識的には善い人たちです。その善い人たちが熱心に神に仕えているはずが、結局泥沼にはまってしまうというのがこの世の悲劇なのです。ローマ書で展開された議論をマルコはストーリーで描いているわけです。律法学者たちの立場とは、神と人とを峻別するという、ユダヤ教の根幹のものです。癒しや奇跡があっても、それらを単純に神のものとは認めないという慎重さが売りです。まして、自称メシヤなどもってのほかでしょう。この「迷信やカルトを排除する」立場は善いものです。それはユダヤ教に限らず、あらゆるシーンで必要なものでしょう。彼らにとって、イエス様の奇跡に熱狂する群衆は愚かで危険なものと見えました。一時の感情や損得ではなく法律と秩序によって社会は運営されなければならないのです。それが倫理であり「善いもの」です。問題は、その善いものが物事を解決しないということです。

 

それを解決するのが福音であり聖霊の働きなのですが、その実現には長くて苦しい道のりがあります。それは、神の子が律法によって裁かれることによって、逆に律法が乗り越えられるという奇跡に進む道です。イエス様の道とは十字架の道であり、癒しや悪霊追放などの業はあくまでも十字架への準備です。すなわち、癒しなどの善い業が律法によって裁かれるという矛盾が次第に積み重なっていき、その先に十字架があるのです。そして、その十字架によって訪れるのが「罪の赦し」です。ですから、この「赦し」は律法の規定による免罪とは異なります。より根本的な「的外れ状態」からの解放であり、それは、なんとしても律法を乗り越えなければ実現できないものです。中風の人へ「罪が赦された」と言われたのは、この十字架の前触れであり、単なる一方的な宣告ではありません。十字架なしで罪の赦しを告げることは、律法学者たちの言うとおり神を冒涜する行為だとも言えます。ここから先、イエス様はますますこの厳しい道を歩んでいかれるのです。