礼拝メッセージ要約

2026111日「中風の人の癒し〜2」

 

マルコ福音書2

数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。 

それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。 

そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。 

群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。 

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。 

ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。 

「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」 

彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。 

中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。 

10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、 

11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。 

12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

 

「中風の人の癒し」について続けて読んでいきます。この出来事の中心テーマは、中風患者の癒しそのもの以上に、イエス様がある種の「人の子」宣言をされたことです。イエス様は、つり降ろされた患者に向かって、罪が赦されたと言われました。中風の癒しではなく、信仰に対して罪の赦しが行われたことがポイントです。ここには様々な要素が含まれているので、丁寧に見ていきましょう。まず6節からです。イエス様の言葉に対して、そこにいた律法学者たちは心の中で「神の他に罪を赦すことはできないのだから、それは神を冒涜していることになる」と理屈を言いました。ここで、「罪の赦し」について確認します。

 

まず、イエス様と律法学者が語っている「罪」は複数形なので、もろもろの罪についてです。(ローマ書で出てくる単数の所謂原罪とは違います)。律法は、罪に赦しに関してどのような仕組みを提供しているでしょうか? それは、ある意味では常識的なものです。今日の法律と似たようなもので、これこれの犯罪については、これこれの罰があるというものです。そして、その罰を受けるなり和解や回復の措置が講じられれば、その一件は解決します。ですから、罪の赦しは基本的に律法によって与えられます。そして、その律法は神から与えられているのですから、厳密に言えば、神が律法を通して罪を赦すのです。神権に基づく法治主義と言えるでしょう。法治ですから、罪は具体的な個別の罪についてであり、赦しも個別のものとなります。その意味で、律法学者たちは、「神だけが罪を赦すことができる」というのは正しいのですが、それはあくまでも「律法の手続きに基づいて行われること」が前提です。祭司が「あなたはきよい」と宣言するのも、祭司が人をきよめたわけではなく、律法の規定にしたがって行います。罪の赦しも同様で、人が他人を赦すにしても、律法に従って神の赦しを告白する形になります。この法治主義を軽んじることはできません。なにしろ、現代にいたるまで、法治主義はゆがめられているのですから。

 

その意味で、パウロが言うように律法は良いものなのです。それは健全な社会にとって不可欠です。しかし、それは人を救うことはできません。救いには律法以上のものが必要です。なぜなら、この「救い」とは「罪人の救い」だからです。赦されざる者を赦すという、超法規的措置が不可欠なのです。問題は、そのような措置を決定する権限をだれかが持っているのか。もし持っているとしたら誰なのかということです。シンプルな答えはもちろん、神だけが持っているというものでしょう。もっとも、神でさえ超法規的措置はとれないという考えもあります。一度制定されたものには、制定者も拘束されるという人間の考えが神にも適用される場合です。神ご自身はともかく、古代の王もそうでした。一度宣告したことは、宣告した本人の王でさえ取り消すことができなかったのです。できたのは、新たな宣告を出して、実質的に前の宣告を「超える」ことでした。この考えは、神の契約についても言えることです。旧約と新約の関係もそうです。新約が来た時に起こったのは、神が旧約を取り消したのではなく、新約によって旧約を完成し「卒業した」のです。ローマ書で論じられているとおりです。ですから、仮に「超法規的措置」があったとしても、それが法規を破棄するものではなく、法規を超えるものでなければなりません。

 

聖書箇所に戻ります。以上のような意味で「罪を赦す」権威が問題となっています。ここでイエス様は、いきなり罪の赦しを宣言し、その上で、「人の子が罪を赦す権威を持っていることを知らせるために」中風の人を癒しました。この癒しそのものの前に、ここでのテーマである「人の子」について確認します。イエス様はご自身のことを基本的に「人の子」と呼んでおられます。それに対して、「神の子」や「メシヤ(キリスト)」という言葉は、他の人がイエス様を呼ぶさいに使う言葉で、イエス様ご自身はそれを「特殊な意味で」受け入れられているという構図です。そもそも「人の子」とは何でしょうか。まずそれは、単純に人間を指します。人の子は人ですから。イエス様の「人の子」にも、その要素が含まれていることが重要なのですが、それについては後で検討します。「人の子」のもう一つの意味は、黙示思想に登場する特殊な「人の子」です。旧約聖書でもダニエル書にあります。その「人の子」天上で神の国の支配を受け取り、イスラエルの圧政者を裁くという、神の審判を代行する者として描かれています。人の子は、その他の聖書外文書にも登場しています。たとえば、1エノク書の「たとえの書」では、天的な存在で神の栄光を受け取り、義人を救い、悪者を裁いてイスラエルを回復する、神の玉座の近くに座る存在です。このような「超人的な人の子」という観念が当時ありました。そして同様の内容をもったメシヤ像も広がっていました。いずれにしても、その「神の代行者」は、神の権威をもってイスラエルを救う役割をもっています。神の直接介入から神の代行者による介入に思想が変化した理由については今は問いません。いずれにしても、そのような「超人的な人の子」のイメージが存在していたことが重要です。

 

そのような「人の子」はあくまでも「審判者」としてイスラエルを救う者であって、罪を赦す話は出てきません。人の子と罪の赦しを連結するのはイエス様独自で、画期的なことと言えます。しかし、よく考えてみれば、神の権威の代行者として裁くことができるなら、赦すこともできるはずです。そこに論理的な矛盾はありません。しかし人は論理よりも感情で動きます。イスラエルの現実の苦しみの中で、異邦人への裁きが主たる関心になるのは当然でしょう。そしてそれ以上に、神の権威の行使が「律法を通して」行われるという前提に留まる以上、「赦しがたきを赦す」という所まで到達することは難しいどころか不可能なのでしょう。しかし今や、この不可能と思われていたことが、現実となろうとしています。そして、それが目の前に二つの問いとして現れているのです。一つは、人の子に罪の赦しの権威があるのかどうかであり、もう一つは、イエス様がその「人の子」なのかという問いです。この二つは別の問いなのですが、イエス様にあって、それが一つの問いとなり、そして今や一つの答えが与えられようとしています。それが「癒し」の行為として現れるのです。続けてこの「癒し」について読んでいきましょう。