礼拝メッセージ要約
2026年1月4日「中風の人の癒し」
マルコ福音書2章
1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。
今回の「中風の人の癒し」は、癒しそのもの以上に、その特異な状況によって知られています。すなわち、友人たちが屋根を壊して患者をつり下ろした行為と、それを受け入れられたイエス様の応答です。まずは、全体像を把握しましょう。イエス様は拠点となっているカペルナウムに戻ってこられ家におられました。それを知った群衆が押し寄せてきたのは、数日前にシモンのしゅうとめを始めとして多くの人が癒され、悪霊が追放されたことを知っていたからでしょう。同様の奇跡を期待して集まったのは当然ですが、イエス様は彼らに向かって「みことば」を話しておられました。この「みことば(定冠詞つきのロゴス)」は、初代教会では福音を指しています。当然とは言え、人々の期待する奇跡以上に大切な「福音」をイエス様は伝えておられました。繰り返しになりますが、この段階での「福音」とは、神の国(支配)の訪れで、十字架の啓示はまだ先の話です。いずれにしても、この「みことば」からすべてが始まるのは、当時も今も同じであり、この優先順位を変えることはできません。
そのような状況に「中風の人」が登場します。(原語は単に体が麻痺した患者のことで、中風に限りません)。彼は四人(友人?)にかつがれて来ましたが、家は人で溢れていたため、屋根から降ろされました。屋根は、材木の梁に編んだ枝と粘土を固めたものを乗せただけの簡便なものなので、簡単に外せるものでした。とは言え、それが突飛な行動であったことに変わりはありません。「目的のためには手段を選ばず」とも言える行為は、一般的には勧められません。特にそれが宗教ともなると、不道徳で狂信的なものでも自己正当化される危険があります。ポイントは、イエス様に近づくことと、宗教にのめり込むことの決定的な相違です。この「麻痺した人」は、なんとしてでもイエス様に近づきたかったのです。それは今日も同じであって、イエス様と私たちを隔てるものは何もありません。このことと、特定の宗教団体や宗教家に近づくことは別です。私たちは、日常の行動において、法律を守り、徳を呼ばれるものを尊重し、自分からはすべての人と平和を保つように求められています。律法を尊重しつつも、律法を超えたイエス様のもとに行くことが原則です。
この出来事の次の特徴は、麻痺した人を連れて4人も含めて、「彼らの」信仰をイエス様がご覧になられたことです。ちなみにこの「信仰」は単数なので、患者と4人の合計5人がひとつの信仰を持っていたと考えられます。この「一致した信仰」については、他の箇所でも「二人、三人が心を合わせて祈る」ことの重要性が語られています。これに関しては、個人主義的な信仰と共同体的な信仰の対比という観点から語られることが多いのですが、少し細かく検討する必要があります。まず個人の信仰の重要性です。信仰を神と人とのつながりという意味で言うならば、それは徹底的に個人的なものでしょう。それが聖書の世界の根本です。すなわち、ひとりの神がひとりの人を創造し、アブラハムひとりが選ばれ旅立ちました。その後もモーセやダビデ、そして多くの預言者といった「ひとり」が神の前に立ち、神のわざに参与してきたのです。そして、いまや究極の「ひとり」であるイエス様がおられます。「ひとりの神」という観念は、神の数のカウントではなく、神と人とが個人として対面するという事実から逆に導かれるのです。人は「ひとり」で生まれ、ひとりで死にます。生きているのも、多くの人に囲まれてはいても、あくまでひとりであり、自分の人生を生きる他ありません。この厳粛な事実を忘れるために、人は多くの娯楽や社会活動、そして宗教を編み出してきました。しかし、それらを絶対視するならば、この「ひとり」という事実を忘れたり曖昧にしたりすることにつながるのです。
ですから、集団的信仰が、この「ひとり」という元事実をぼかすようなものであれば、それは聖書の信仰とは言えません。聖書の集団的信仰とは、この「ひとりの信仰」を複数の人が持っている状態のことです。多くの場合、私たちが心をひとつにして祈るのは、共通の目的のために祈る時でしょう。そこにあるのは「ひとつの願い」です。この麻痺した人のケースも同様です。しかし、そのひとつの願いが「信仰」であるかは別です。その願いの質が問われずに、多くの人がそれに共観し、その実現を求めるならば、それはやがて熱狂的な群衆心理となり、場合によっては社会にとって有害なものとさえなるでしょう。その意味では、専制政治でも民衆のポピュリズムでも同じ危険があり、まして宗教はより大きな影響を持ち得るでしょう。
宗教では、そのような集団心理を産み、また増長されるために、さまざまな方法が編み出されてきました。荘厳な儀式は厳しい修行によって「自分を忘れさせる」のが目的です。その意味では、娯楽に似ています。ただ、娯楽以上に一貫して自分を忘れる可能性も持っているでしょう。そのような人は、自分が、より大きなものの一部になったことで安心し、自分を失ったのにもかかわらず、自分が肯定されたかのような錯覚を覚えます。そして、そのような群衆を支配し利用する人びとも出てきます。それで、「宗教はアヘンだ」などと言う人も出てくるのでしょう。宗教に功罪があるとすれば、罪の側面と言えます。もちろん、これはいわゆる宗教に限らず、あらゆる疑似宗教的なものに共通することです。
そのような「我を忘れた群衆」に向かって、時に神は古来「ひとりの預言者」を遣わし、「ひとつの願い」を打ち壊してこられました。そのような「預言者的信仰」を複数の人たちが共有するならば、それが真の「集団的信仰」となります。預言者も複数現れましたし、今やイェス様の周りにも弟子たちがいます。それでも、これからイェス様は、ますます「ひとりの道」を歩いていかなければなりません。これからは、群衆からも距離を保ち、さらには宗教家たちとの鮮烈な対立も経験することになります。しかしその前に、わずか5人とは言え、信仰を持っている人たちが現れました。麻痺した人と、彼をつれてきた4人に、私たちは彼らの一致した行動しか見えませんが、イエス様は何故か「信仰」をご覧になりました。奇跡を待ち望む多くの群衆とは違う何かに気づかれたのです。彼らは預言者ではありませんが、ある意味では「預言者的」な存在でもあります。イエス様誕生の際の羊飼いたちや、後にイエス様を訪問した東方の賢者たちのように。