礼拝メッセージ要約
2025年12月14日「回復」
マルコ福音書1章
35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36 シモンとその仲間は、イエスを追って来て、
37 彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言った。
38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
39 こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。
40 さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
42 すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。
43 そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。
44 そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
45 ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。
シモンの家に押し掛けてきた大勢の人々をイエス様は癒されました。常識的に見ると、宣教は大成功だったということになります。しかし、イエス様はそのような状況に安住されず、朝早く祈りのために出かけられました。「寂しい所」は荒野の同じ言葉です。40日間サタンの試練を受けられた時のように、社会から一旦離れて神との時を過ごされたのです。いわば、社会での活動はリセットして、新たに宣教を始めるためです。宣教は、社会文化活動とは違い、聖霊の働きによるものですから、常に原点に帰ることが重要で、これは私たちもしっかり覚えていなければならないことです。しかし、当時の弟子たちはそのことがわからず、民衆がイエス様を探していると告げました。もちろん、自分たちのところにイエス様を連れ戻したいという、民衆のニーズがあったからでしょう。しかし、祈りの中でイエス様は別の道を示されていたのでしょう。別の村に行くと言われました。もちろん、宣教を広げるだけでもありますが、一か所に留まる危険があるためでもあります。その危険が次第に明らかになります。
イエス様は、ガリラヤの各地で会堂に入り、神の国のメッセージを語りました。当初と同様、それに付随して、多くの悪霊も追い出されました。その中が、ひとりの「らい病人」がいました。今日の訳ではらい病ではなく「ツァラアト」等と訳されています。というのは、それはハンセン病のことではないからです。(この誤訳には古くからの経緯があり、それに関連した不当な差別の歴史もあります)。「ツァラアト」はモーセ律法にある規定で、皮膚や衣服、壁などに発生する「異常」な状態を指しています。皮膚も場合は、ハンセン病の症状ではなく、白斑、乾癬、白癬その他の湿疹的な慢性皮膚疾患に似ています。また、壁や衣類の場合は、カビや菌による腐食や変色が考えられます。いずれにしても、らい病とは関係ありません。
問題は、そのような科学的な原因ではなく、社会的な隔離の制度です。つまり、「けがれ」という宗教的要因からくる隔離です。けがれていると見做された人が社会からのけ者にされるのは、古代ユダヤに限った話ではないでしょう。ホロコーストのような大規模なものから、教室内でのいじめまで様々な形態があります。現代社会での組織的な隔離と言えば、先日の新型コロナパンデミックがあります。その基本は感染症対策という科学的なものであったとは言え、実際には非科学的な思い込みによる職業差別なども起こったことは記憶に新しいとこるでしょう。古代ユダヤ社会での隔離がどのような根拠によってなされたのかはともかく、実際問題として「けがれ」を隔離し、けがれから離れることが求められていたのは事実です。その際、隔離される側の苦しみは筆舌に尽くしがたいことでしょう。しかし、けがれたものに触れたものには、感染症のように、けがれがうつるという考えが出発点である以上、その仕組みを変えることは難しいのです。そして、そこにあるのは「接触」の問題です。
41節にイエス様はツァラアトの彼を深くわれまれました。「はらわたがわななく」という非常に強い表現です。そして早速彼を癒されました。その際のポイントは、イエス様が彼に触れたことです。ことばだけで癒すことが出来るイエス様が、わざわざ触れたところが重要です。けがれた者にふれたイエス様も、通常ならばけがれたことになります。しかし、この場合は、そのけがれが移ることはなく、反対にイエス様のきよさが彼にうつったのです。接触によって「うつる」という部分は同じなのですが、うつるものが「けがれ」から「きよさ」に逆転しているところがポイントです。これが、「神の国が近づいている」ことのしるしであることは言うまでもありません。ただし、その癒しが「神の国」のすべてではありません。問題は社会からの隔離にあるからです。
そこでイエス様は彼に「回復の手続き」を行うように言われました。祭司にけがれが解消したことを認めてもらうことです。それによって彼は社会の中に戻れるのです。この部分については、イエス様は律法を尊重しておられます。社会制度を崩すことが目的ではないからです。もちろん、神の国において、結果的には社会制度も変革していきます。ただし、それは人間自体の変容の結果起こるので時間がかかります。そこには神の国の「すでに」と「いまだ」の両面があり、私たちの信仰と忍耐が要求される所以です。
ただ、マルコのポイントはそれだけではありません。イエス様は彼に対して、この件については誰にも言わないように言われました。(強い表現です)。前に、悪霊に対して黙るように命じられましたが、ここでは人に対しても、ご自身のことを黙っているように命じられたのです。いわゆる「メシヤの秘密」がここにもあります。イエス様の宣教は「宣伝」ではありません。宣教と宣伝の区別は微妙ですが重要です。これについては、徐々に明らかになっていくでしょう。マルコの記事で重要なのは、彼がイエス様のいいつけを守らず、人々に言い広めたという点です。うれしかったからでしょうが、イエス様に背いていることには変わりありません。宣伝には一役かっていますが、本来の宣教からは外れているのでしょう。その結果、イエス様は町の中に入れず、町はずれの寂しい所に留まることになってしまいました。もともと、けがれた人は町の外に追いやられていましたが、イエス様によって癒され、町の中に戻ることができました。しかし反対に、癒したイエス様の方が、町の外に追いやられてしまったのです。ここにもう一つの「逆転」があります。イエス様と彼との接触によって、まず「けがれがうつる」ことから「きよさがうつる」ことへの逆転が起こりました。それだけならば目出度い話ですが、それに伴って、癒された人が町に戻り、癒したお方が町から外れるという逆転も起こったのです。これが、「逆転」の単純にいかない所です。
イエス様は神の権威によって人々を癒し解放することがお出来になりますが、それはいわば「上からの超人的なパワー」によって強制的に実現するものではありません。むしろ、罪人である私たちとの接触によって、ご自身が私たちの罪を引き受け、反対に彼のきよさを私たちにもたらすのです。すなわち十字架です。この十字架によってイエス様は町の外どころか墓に葬られました。そして、今や私たちは神の国に入ることができるのです。その土台が「接触」であり、パウロの言う「キリストにつながる」ことへと進んでいくのです。