礼拝メッセージ要約

20251130日「会堂での悪霊追放」

 

マルコ福音書1

21 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。 

22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。 

23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、大声でわめいて言った。 

24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」 

25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。 

26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。 

27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」 

28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

 

イエス様が会堂で教えておられると、汚れた霊につかれた人が大声でわめきました。マルコ福音書では、福音が言葉による説明よりも、出来事が次々と展開している様子で語られています。ここでも「すぐに」悪霊の出来事が起こったとされています。福音書では、いわゆる「悪霊追放」の話が何度も登場します。ここでは、悪霊追放の背景を把握することにします。なお、悪霊そのものをどう理解するかについては後で取り上げます。あずは、この箇所の内容自体を理解しましょう。

 

背景とは、当時のユダヤ社会で通用し、また新約聖書にも影響を与えている黙示的なユダヤ思想の枠組みです。まず、悪霊の存在そのものは前提としたうえで、その由来について議論されていました。その中のある説によると、悪霊は堕落した天使(御使い)で、その多くは、ノアの洪水の時代にさかのぼります。創世記6章には、「神の子たち」が人間の女性の美しさに魅了され人間と結婚したという話があります。この「神の子」を比喩ではなく御使いと解釈さることがあります。その結果、罪は増大し、大洪水に至ったという流れです。創世記以外の伝承では、その御使いたちは神の裁きを受けます。その裁きでは、それらの御使いは悪霊となって、しばらくの間、地上をさまよいます。そして、終末にはかれらは閉じ込められ、最終的に神に滅ぼされるのです。一説では、そのリーダーがサタンとなったルシファーであり、彼が天から地上に落とされた時、天使の三分の一も共に落とされたとされています。(ヨハネの黙示録にもそのような記述があります)。

 

そのような由来の顛末はどうであれ、現に悪霊が活動している現状があります。そして、当時はイエス様以外にも、悪霊を追い出したり癒しを行ったりする人たちが活動していました。(いわゆるエクソシストやヒーラーは今日も存在しています)。ですから、当時の人にとっては、そのような活動の存在は当然です。そして、イエス様がそのような活動をされたこと自体は不思議ではありません。問題は、イエス様もそれらの人たちの一員に過ぎないのか、それとも特別な存在なのかということです。マルコ福音書のテーマもそこにあります。それを扱っているのが24節と25節です。

 

22節でイエス様は特別な権威を示すことばを語っておられました。その時点でイエス様が悪霊に何かをしたわけではありません。しかし悪霊は自分の方から叫びだしました。自分たちが滅ぼされると思ったからです。この「滅び」は前述の黙示的枠組みが背景にあります。悪霊(堕落した天使)は地上をさまよっているのですが、時が来ると捕らえられ「滅ぼされます」。つまり、彼らが滅ぼされるとは、その「時」が来たという意味です。そして、その「時」すなわち終末とは、メシヤが来られる時でもあります。悪霊は、この箇所ではイエス様が「神の聖者」であると読んでいますが、他の箇所ではメシヤと呼んでいます。表現はどうであれ、その終末に現れ、悪霊たちを滅ぼすお方であると認識していることに変わりはありません。ですから、ここでの「滅ぼす」とは、悪霊を人から追い出すことではなく、終末を意味しています。ルカ8:31で、悪霊が「深淵に送るな」と懇願しているのも同じことです。

 

ですから、悪霊は、終末に起こる滅びそのものは知っていますが、まだその「時」ではないはずだという認識なのです。この「時」すなわちカイロスが論争のテーマとなっているわけです。因みに、ヨハネ福音書では何度も、「わたしの時はまだ来ていない」(ヨハネ2:4)というイエス様のことばが記されています。この「わたしの時」がすなわち福音の本質なのです。マルコに戻ります。悪霊はイエス様が「終末的な」役割を持っておられることを知っていました。なぜ知っていたのかは明記されていませんが、この「知っている」ことそのものが、イエス様がある意味で「天的」な存在であることを示しています。なぜなら、悪霊もそもそもは御使いであって、神と地上にある、いわば部分的には天に所属している存在だからです。人間には伏せられていることが、いわば悪霊の口を通して語られているのです。ただし、悪霊にとってメシヤは彼らを滅ぼす存在ですが、人間にとってどのようなお方なのかは、まだ明らかになってはいません。それはやがて明らかになることです。

 

このような状況下で、イエス様は悪霊に向かって「黙れ」と命じられました。この「黙れ」は何度も繰り返されます。マルコ福音書で「メシヤの秘密」と呼ばれている事柄です。イエス様が、ご自身がメシヤであることを隠しておられたことを指す表現です。イエス様が悪霊を黙らせているのが、悪霊がメシヤを知っていて、言いふらすことになりかねないからです。イエス=メシヤという図式は正しいのです。しかし、正しい図式を宣伝することが良いとは限りません。なぜなら、そのメシヤという言葉で何を意味しているのかは一概に言えないからです。悪霊に限らず、この後、多くの人々もイエス様をメシヤとして担ごうとしますが、イエス様はそれも拒否されます。究極的には、十字架を通した復活に至って、はじめてメシヤの真の意味が明らかになります。福音書は、その真理が次第に明らかになっていくプロセスを描いています。これが、いわゆる「啓示」です。ここに重要なポイントがあります。啓示とは単なる知識ではありません。イエス=メシヤという図式を教わり、それを信じるというのではなく、次第に神ご自身が私たちの中で、イエス様の現実を「開いていく」ことです。

 

マルコ福音書で、イエスがメシヤであるという最初の発言が悪霊によるものであったこと。そして、それが会堂の中であったことは象徴的です。このことは、時に間違った方向に話が進むことがあります。会堂をキリスト教会に見立てて、そこには悪霊も隠れているというような話です。もちろん、キリスト教を標榜する組織や団体が悪霊にそそのかされて間違った方向に進む可能性があることは否定できません。しかし、マルコ福音書の論点はそこにはありません。この会堂の出来事のポイントは、イエス様が初めてご自身の権威を公に示されたこと、そこにいた人間は、その出来事の意味を悟ることはまだ出来なかったこと、そして悪霊は霊的な知識を持っていても、その存在自身が間違った方向にあることです。イエス様が活動を開始されたことによって、何かが動きだしたのです。それは、新しい神の時、カイロスの始まりです。始まってはいるが、まだ隠されてもいるという状態です。

 

これが、しばしばテーマとなる「すでに、しかし今だ」という状態です。神の国は、ある意味では到来しているのですが、その完全な姿はまだ現れていないということです。そして、それは現代の私たちにもあてはまります。潜在的な事実が顕在化し現実となるという流れです。まちろん、マルコ福音書のこの時点と今は決定的に異なります。それは、主の十字架と復活がすでに実現しているからです。そして将来の栄光を待ち望んでいるのです。