礼拝メッセージ要約
2025年11月23日 「権威あることば」
マルコ福音書1章
21 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、大声でわめいて言った。
24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。
宣教を開始するにあたって、イエス様はまず会堂に行かれました。会堂(シナゴーグ)は「集会所」という意味で、聖書の朗読や解説、祈りなどが行われる場所ですが、それだけではなく、冠婚葬祭や集会などの社会的機能も持っています。ユダヤ教の中心は神殿があったエルサレムですが、ユダヤ人がバビロン捕囚などで神殿を失った時に、人々が信仰を維持するための拠点として、各地に集会所が作られたのが起源です。いけにえが捧げられる神殿ではなく、あくまでも集会所という点は重要です。(エルサレム神殿に代わるものは存在しません)。会堂では安息日に集会が行われます。まず「シェマ(聞け)、イスラエル」が唱えられ、祈りと祝福の後、トーラー(律法)が朗読されます。続いて預言書が読まれ、説教が続きます。説教は一人に決まっているのではありませんでした。イエス様も(また、後にはパウロなど使徒たちも)頼まれた時には説教をしたのです。21節もそのような状況です。
マルコ福音書は、イエス様の言葉よりも行動を中心に記しているので、ここでも、その教えが何だったのかは書いてありません。この箇所の直前では、「神の国が近づいた」と言われていたので、会堂でも同様だったと思われるのですが、何故かそこにいた人々は「その教えに驚いた」とあります。驚いた理由は、イエス様の教え方にありました。(おそらく、教えの文言自体はヨハネから引き継いだ「神の国」のメッセージだったのでしょうが、イエス様の語り方が違っていたのでしょう)。「律法学者のようにではない」教え方だったとあります。律法学者の教え方とは、モーセやそれまでのラビ(学者)たちを引用し、彼らの権威を背景にして教えるやり方です。要するに、自分勝手な解釈ではなく、伝統的で正統な聖書解釈をするというものです。もちろん、過去の解釈を機械的に引用するだけではなく、律法の適用を時代の変化に合わせていきました。学者として当然の姿勢でしょう。
また、今日のキリスト教会でも真っ当な路線です。しかし、イエス様はそうではなかったので人々は驚いたのです。
イエス様は「権威ある者のように」語られました。つまり、モーセや先人たちの権威によらず、ご自身の権威によって語られたということです。これは確かに驚くべきことでしょう。モーセ以来の伝統を無視して、勝手な話を始めたと受け取られる危険もあったからです。ただし、少なくともこの時点では、その話の内容自体が「全く新しい話」であったわけではないでしょう。もしそうだったのなら、イエス様はすぐに会堂から追い出されていたに違いないからです。そうではなく、イエス様はモーセや預言者たちの言葉を語っているのに、あたかもそれがイエス様ご自身の言葉であるかのように響いたということです。(他の福音書には、イザヤの預言を朗読された上で、それがご自身において成就したと宣言された記事があります)。言い換えると、イエス様は神のことばを、他人事ではなくご自身のことばとして語られたということです。これが、イエス様のメシヤとしての「権威」の現われです。マルコ福音書は、この出来事をもって、イエス様の権威を目に見える形で描写していくことになります。
今回は、その展開を読む前に、この出来事を通して今日の私たちが学ぶべきことを確認しましょう。前述のとおり、律法学者たちの教えは、それ自体としては真っ当なものです。今日のキリスト教会においても、自分勝手な思い込みで聖書を読むのは危険です。聖書にはさまざまな種類の文書が含まれており、著者も、書かれた時代も環境も異なります。さらに、それらが今日の形で編集された経緯もあります。いわば聖書のバックグラウンドが存在します。それを知ることは必要です。幸いなことに、現代は情報化時代なので、これらの背景知識を学ぶことは容易です。専門書を紐解くまでもなく、検索するだけでも多くの情報を手にいれることができます。そればかりでなく、生成AIを使えば、分からない部分について質問して議論を深めることもできます。もちろん、それらの情報が全て正しいわけではありません。ただ、それは書籍でも同じことです。それらはあくまでも「参考資料」です。検索と生成AIには特徴があるので使い分けることが必要です。検索は比較的、正しい情報が多いですが、検索ワードに引っ張られて偏った情報ばかりが集まる危険もあります。生成AIは反対に、「勝手に」文を作るので、幅広い情報を得ることができる反面、AIは事実ではないことも創作する危険(ハルシネーション)があります。聖書の学びは大切なので、祈りつつ丁寧に進める必要があります。
以上は「書かれていること」を読みとるために必要なことです。いわば「律法学者」のレベルです。しかし、言葉は書かれていることだけではなく、「語られる」ものもあります。いわゆる「口から出る言葉」です。それは、単なる情報以上のもので、いのちを与えることもあれば、奪うこともあります。ただし、単に口から出ているだけで、それが「書かれた情報」と変わらないのであれば律法学者と同じになってしまいます。しかし、それがその人の内部から出ていて、その人自身の言葉であれば、いきたものとなります。私たちの場合も、いわゆる「みことばが与えられた」と呼ぶ経験があります。聖書の一句が、ちょうどその場面にぴったりと当てはまり、神が自分にそのことばを語られたと感じる瞬間です。このような「ことば」は、必ずしもその聖句の文脈と一致しているわけではありません。モーセが海を渡るシーンの聖句だからといって、物理的な出エジプトをするわけではないようなものです。そのような断片的な聖句の引用も、聖霊に導かれたものであるならば力があります。その時、私たちは律法学者として語っているのではないからです。ただし、そのような特定の聖句の引用は、その時その場所で本人に対して与えられたものであって、普遍的なものではありませんから、他の人にそのまま適用してはならないのは当然です。「一つの聖句から教理を作ることはできない」のもそのためです。
イエス様が語られることばは「いのち」を与えるのは、それが客観的に正しい(すなわち書かれていることを正確に把握している)だけではなく、彼自身のことばでもあるからです。それで人々はイエス様が権威あるもののように語ったと感じました。いわば、神に由来する「正しさに基づく権威」と、イエス様ご自身から発する、当事者としての権威が一致しているということです。イエス様における「神の権威」と「人の権威」の重なりこそは、マルコ福音書の語る「人の子(メシヤ)」の権威というテーマです。これをつきつめると、神と人との重なりという根本テーマにいきつきます。神と人という、本来決して重なってはならない両者の重なりが福音の出発点なのですが、それを論文形式で説明するのではなく、出来事の描写という、いわゆる物語形式で描くのが福音書です。今回の箇所は、いわばその宣言でありオープニングです。これに続いて、さまざまな「奇跡」が描写されていきますが、私たちはそこに神の権威の現れを見るだけではなく、人の権威との重なりを見ていかなければなりません。福音者は単なる超能力の話ではないからです。