礼拝メッセージ要約

2025112日 「荒野での誘惑」

 

マルコ福音書1

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 

10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 

11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。 

13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

 

イエス様がバプテスマを受けられるとすぐに御霊が下ってこられました。そして、天から神の子であるとの宣言がなされました。ここで、イエス様の公的生涯が始まったと言えます。そして、その始めにあるのが「荒野での誘惑」です。この誘惑が、たまたま起こったことではなく、神の主導のもとに、ある意味では「無理やり」実現したというのが、第一のポイントです。すなわち、12節にあるように、御霊がイエス様を荒野に「追いやった」のです。この追いやるというのは強い表現でしょう。しかもそれは、すぐに起こったのです。ちなみに、ここで「追いやった」という言葉は現在形で書かれていて、目の前でそれが起こっているかのような切迫感があります。

 

聖霊体験は、もちろん至上の幸せではなりますが、それが必ずしも簡単でバラ色の人生を保証しているわけではないことが分かります。というのは、イエス様だけではなく、私たちにとっても、聖霊が与えられることは、すなわち神の子どもとされることで、子どもはその後成長していかなければならないからです。ましてイエス様の場合は、その公的生涯という絶大な任務を帯びているのですから、その始まりに大きな出来事があっても不思議ではありません。

 

その出来事が「荒野での誘惑」です。もちろん、サタンによって誘惑されるのです。ここで疑問を持つ人もいるでしょう。神様は私たちがサタンに誘惑されるように導くのかという疑問です。しかしそのような神学論争はどうであれ、神の支配下にあっても、私たちが誘惑されること自体は否定のしようがありません。ですから、そのような試練も現実の一つとして受け入れるほかないでしょう。ともあれ、イエス様がそのような誘惑を受けられたのは、神の断固たる意志であったというのがポイントです。

 

そのような重大事態なのですが、マルコは13節の1節だけで、出来事をあっさりと記録しています。他の共観福音書では、誘惑の内容が記されています。サタンが空腹のイエス様に向かって、石をパンに変えたらという誘惑し、イエス様は「人はパンだけではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」と答えられたこと。サタンがイエス様に向かって、「神の子なら高い塔から飛び降りても天使が足をささえ守ってくれるだろう」と誘惑したこと。またサタンが「私にひれ伏せば、私が支配している全世界を渡そうと」と言った誘惑です。要約すれば、生存欲求、承認欲求、支配欲求に訴える誘惑で、しかも、そこに聖書の引用、神の子の権威、そして、罪によってサタンの支配下にある世界という神学的な内容が含まれていることがポイントです。すなわち、サタンの言っていることに一理あるから、誘惑として成立しているのです。そして、そのような状況下でイエス様がどのように対処されたのが分かる描写になっています。これは、イエス様に限らず、私たちにも起こり得ることです。あからさまな悪への誘いは拒否することが可能ですが、聖書や神学を背景にした誘惑は、いわば詐欺のようなものです。それに立ち向かうには、聖霊による知恵と導きが必須です。そのことを含めて、教訓となる事柄がいろいろと示されている重要な箇所なのですが、詳細は各福音書の解説に譲ることにします。今回はマルコ福音書の描写に絞って読んでいきましょう

 

マルコが書いているのは、サタンの誘惑の内容ではなく、誘惑を受けておられるイエス様の周囲の状況です。四十日間荒野におられた事。御使いが仕えていた事。獣が共にいた事。以上の3点です。四十日という期間については、旧約時代のさまざまな出来事を連想させられる数字です。それは苦難と試練の時をさす象徴的数字です。ノアの時代の洪水は四十日四十夜続きました。イスラエルは四十年荒野にさまよいました。モーセは四十日四十夜シナイ山で断食しました。イスラエルは四十年のあいだペリシテ人に渡されていました。エリヤは四十日四十夜荒野を渡ってホレブ山につきました。このようなことを背景に、イエス様がご自身をイスラエルの民の立場に置かれたことがわかります。すなわち、イスラエルの民のために、イスラエルの民の代表として苦難の道を歩まれる覚悟が試された期間であると解釈できます。もちろん、その道の行先は十字架であり、荒野での試練はその前兆と言えるでしょう。

 

この四十日の間に具体的に何が起こったのかは分かりません。他の福音書によると、四十日たった頃イエス様は空腹を覚えられました。その時にサタンが石をパンにすることを勧めたとあります。そして、その他の誘惑に負けず、試練に打ち勝った時に、御使いたちが現れてイエス様に仕えたと書かれています。しかし、マルコでは、端的に、御使いたちが仕えていた事実だけが書いてあります。この「仕える」は継続的な「仕える」なので、仕えていたと訳されています。マルコから受ける印象は、神がイエス様に試練を与えると同時に、御使いも遣わし守られたという、いわば神の親心の現われです。これも、イエス様が模範を語られているとすれば、私たちも試練の中で、目には見えなくても御使いが仕えてくださることが期待できます。

 

マルコの記事の特徴は、御使いだけでなく、そこに獣もいたという点でしょう。この印象的なシーンについては、終末的なビジョンが反映されているという解釈があります。例えば:

「狼は子羊と共に宿り、豹は子やぎと共に伏す小さい子供がそれを導く。」(イザヤ11:6-9)

これはメシヤの支配する時代、被造物全体の調和と平和を描いている預言。

「野の獣、空の鳥、地を這うものと契約を結ぶ。」(ホセア2:18
神の国の到来と共に、自然界も和解するという預言。

このような預言との関係から、「野獣と共にいる」は、終末的調和・救済の象徴として見ることもできます。

 

もちろん、試練の場所である荒野と終末的ビジョンは正反対ですから矛盾しています。獣がいることは、単純に危険な場所を示しているとも言えるでしょう。あくまでもそのような多様なイメージが浮かぶということで、確定的な解釈ではありません。しかし明確なメッセージはあります。それは、イエス様がこのシーンの主役であり、そこに脇役がいるということです。すなわち、御使いという天上の存在、獣という地上の存在、そしてサタンという地下(霊界)の存在です。これらの存在は、それぞれの立場でイエス様と関係しています。天は助け、地上は中立、地下は敵対です。もちろん、このような天上、地上、地下という三層構造は、当時の世界観であり、機械的にそれを受け取る必要はありませんが、形はどうであれ、そのような三種類の関係があることには変わりありません。そして、もちろんそこに「人」が含まれていない事がポイントです。イエス様が「ひとり」でおられることに意味があるのです。

 

それは、直前に天からの声があったように、「神の子」としての「ひとり」であり、同時に試練の中にいる民の代表としての「ひとり」でもあります。その意味で、荒野は苦難の中にある全世界の象徴でもあり、その中心に「ひとり」祈られるイエス様は、ゲッセマネと十字架の予表なのです。