礼拝メッセージ要約

20251026日 「水のバプテスマ」

 

マルコ福音書1


神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

預言者イザヤの書にこう書いてある。

「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。

荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、 

バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。 

そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。 

ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 

彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。 

私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 

10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 

11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

 

メシヤ到来の道を整えるためにヨハネは現れました。彼はヨルダンで人々にバプテスマを授けており、イエス様ご自身もバプテスマを受けられました。ここで、バプテスマについて確認しましょう。「バプテスマを授ける」とは、何かに浸して染めるという意味です。ですから、水のバプテスマを授けるとは、(誰かを)水に(染め上げるごとく十分に)浸すということです。基本的に、その水は流水でなければなりません。流水は「生ける水」と呼ばれています。ヨハネがヨルダン川で授けていたのもこのためです。人は流れる水の中に入り、自分で頭まで完全につかります。3回繰り返すとも言われます。(おそらく自分でしゃがんだのでしょう)。完全に浸るために、指先をひらひらと動かしたとも言われています。いずれにしても、流れる水に完全に浸るということがポイントです。そして、バプテスマを授ける人とは、この「浸し」の立会人です。ですから、当時の人々はヨルダン川に行き、ヨハネの立ち合いのもとで、すなわち彼の名のもとで水に浸ったのです。

 

律法には、さまざまな水による浄めが規定されています。穢れからの浄めは、日本でもお馴染みの行為でしょう。それらは、何度でも必要なときに行われる儀式です。それに対して、ヨハネのバプテスマは一回だけのものでした。特定の穢れを浄めるというより、その人の人生自体を浄めるためだからでしょう。人生自体の浄めとは、罪によって穢れている人生全体を神の前に差し出し、今後は神の民にふさわしい歩みをしていくことの表明です。すなわち「悔い改め」と訳されている「思いの方向転換」です。古い人生から新しい人生への通過儀礼と言えるでしょう。このような悔い改めをヨハネが迫るのは、人々が選民(アブラハムの子孫)であることに安住していたからです。しかも、彼らは律法を持っていました。しかし、ローマ書にもあるように、律法を持っていても行わないなら意味がありません。自分を選民だからといって義人であるとは言えないのです。イザヤなどの預言者たちも、繰り返しイスラエルに悔い改めを迫ってきました。このヨハネのその一人なのです。

 

しかし、そのような全面的な方向転換を迫るバプテスマも、実は限定的な意味しかありませんでした。それは、来るべき「真のバプテスマ」の予兆に過ぎなかったのです。すなわち、イエス様が授ける「聖霊のバプテスマ」です。それが福音書の主題であり、これまでもローマ書の主題として学んできたものに他なりません。ただ、この主題に進む前に、ひとつ確認すべきことがあります。それは、イエス様ご自身も、ヨハネのバプテスマを受けられたということです。

 

この「イエス様の受洗」は謎の出来事として、様々な解釈がされてきました。イエス様は、罪の赦しが必要ないのに、なぜ受洗されたのかという謎です。一部の人(養子論者)は、イエス様も聖霊が下る前は普通の人だったので、お手本を示したと言いますが、公式見解としては、必要がないにも関わらず手本を示したとなっています。ただ見せるための手本以上に、民の一体になったことの証しとも考えられます。あるいは、公的活動の開始にあたって、自らを「聖別」されたという解釈もあります。どれも一理はありますが、決定的とは言えません。とりあえず私たちは、イエス様もヨハネが正統的預言者であることを認められたという理解で良いでしょう。

 

すなわち、ヨハネを代表する預言者の系譜とイエス様には連続性があるということです。同時に、イエス様はヨハネの後継者ではなく、全く別次元の存在でもあります。「かがんで靴ひもを解く値打ちもない」程なのです。この「連続性」と「飛躍」が同時に起こっているというのがポイントです。これもローマ書のテーマです。すなわち「律法の完成と終了」です。完成という意味では連続しており、終了という意味では飛躍しています。パウロはそれを論文のように書いていますが、福音書は同じことを、出来事を物語る方法で書いているのです。この「連続と飛躍」は至る所に登場しますので、しっかり覚えておくことが重要です。今日でもしばしば議論になる話は、多くの場合、この連続と飛躍が関係しているからです。

 

この連続と飛躍は、歴史の流れでどのように実現したのかがテーマです。それが、4節と9節の用語で表現されています。日本語訳では曖昧ですが、直訳すると、「(バプテスマを授けている)ヨハネが成った」(4節)と「そのころ、イエスが来るということが成った」という表現です。日本語でも、端的に「こうしました」と言わず、「こう成りました」と言うことがあります。人為的にそうしたのではなく「自然に」そう成ったというニュアンスです。同様に、ヨハネのバプテスマも、そのような出来事が自然に成ったのであり、イエス様の場合も同様です。すなわち、人間の計画によらない出来事であり、人間から見れば、それは自然に起こったこと、すなわち、「自ずと然りとなる」出来事です。このような意味での「自然」は、神の側から見れば、神の御計画に他なりません。この神の御計画のもとで、連続と飛躍は実現したのです。このような、人間からは「自然」であり神からは御計画である時代がカイロスという時に他なりません。

 

イエス様はヨハネのバプテスマを受けられると、すぐに天から聖霊が降りてこられました。この段階ではまだ聖霊がどのようなお方かは明示されていません。ただ「鳩のように」という一言があります。旧約で神の霊が降った時には、しばしば「激しく」という表現が使われています。しかしここでは鳩という柔和なイメージが全面に出ているのが印象的です。この「柔和」は今後も登場する大事なキーワードとなります。ただし、この後のセクションでは聖霊の別の側面が現れますので、聖霊については全体像を知ることが必要です。この箇所での注目点は、聖霊とともに天から響いた神の声です。

 

「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という言葉は、もちろん、イエスが神の子であることの公式宣言です。ただし、その宣言が何を意味するのかについては様々な解釈があります。いずれにしても、イエス様の受洗が神の御心にかなっていたことを意味するのは確かでしょう。ここでは、それを断定することよりも、これから展開される出来事そのものを通して、神の子の実態に迫っていくことになります。