礼拝メッセージ要約
2025年10月19日 「マルコ福音書の序」
マルコ福音書1章
1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
6 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
マルコ福音書を読んでいきます。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の中で最も古く、マタイ、ルカ福音書の基盤ともなっている福音書です。著者は、伝統的には「ヨハネ・マルコ」とされ、使徒ペテロの弟子、あるいはパウロの伝道仲間として知られる人物で、古代の教会指導者たちによれば、ペテロの説教が土台だと言われています。ただし、初期の写本には著者名は記されておらず、後代になってマルコと呼ばれるようになったので、確定ではありません。執筆時期は紀元65年から70年ごろと推定されています。(保守的な学者は、もっと古い年代を提示することもあります)。エルサレム崩壊の前夜で、厳しい迫害が背景にあるようです。そのためか、文体は簡潔で非常に展開が速く、詳しい説明なしに、次々に事態が展開していきます。「すぐに」という言葉が頻繁に登場するのもその一例です。このような背景を頭に置きつつ、順に読んでいきます。
まず、「福音書」とは何かを確認しましょう。福音とはメシヤの到来を告げる「良い知らせ」のことです。キリストの受難と復活以来、福音は「宣教のことば」によって伝えられてきました。最初は、イエスの直弟子やその周辺の人たちによる証言で、そこから間接的な弟子たちも生まれ、証言をつないでいきました。その中には、使徒や預言者と呼ばれる、高度な知識と信仰を持った人たちもいましたが、特にまとまった書物があったわけではありません。ただし、今では失われてしまった書簡や、何等かの文章もあったでしょう。今日の研究によると、それは次第に、イエスの言葉(教え)の記録と、受難物語という形にまとめられていったと考えられます。そのようなものを背景に、福音を「イエスの活動の物語」という形で提示したのが福音書です。パウロらの書簡による福音のメッセージが、どちらかと言えば論述型であるのに対して、福音書は物語(ナラティブ)のスタイルで書かれているのが特徴です。これは伝記や歴史の単なる記録ではなく、生きた「福音」のことばです。それは聖霊の息吹によって成立したのですから、読む私たちも聖霊によって福音そのものを受け取ることが必要なのです。
この福音の開始を宣言するのが1節です。この福音は、「神の子イエス・キリストの福音」です。到来したメシヤ(キリスト)は「神の子」であり「イエス(という人物)」であるという宣言です。この宣言はけして自明なことではありません。もちろん、メシヤの到来を告げる以上、それがだれなのかを名乗るのが出発点です。それが「ナザレのイエス」だというのがその答えです。もちろん、この答えは自明ではありません。何しろ彼は犯罪者として十字架で処刑されたのですから。それに加えて、彼が「神の子」であるというのは、恐ろしいほどの飛躍でしょう。しかし、この「飛躍」が福音であり、その真実を語るのが福音書なのです。
まず「神の子」という言葉を整理しておきましょう。ユダヤ教世界では、王や特別な預言者を「神の子」と呼ぶことがあるので、福音書冒頭の段階では、必ずしも後に定着した「三位一体の内の子なる神」と解釈する必要はないでしょう。まずは、神から特別に選ばれ、特別な使命を帯びたお方という意味が出発点です。そして、その「特別」がいかなるものなのかが、次第に明らかになっているのです。つまり、「神の子」にはいろいろな意味があるのですが、イエスにおいては何を意味するのかが、この福音書のテーマということになります。日本でも、特別な能力を持っている人を、気軽に神とか神の子のように呼ぶこともありますが、そのような素朴な段階から三位一体の神秘にいたるまで、まずは先入観を排して謙虚に読んでいくことが必要です。
ここで、当時の民衆の雰囲気を確認しておきましょう。ローマ帝国の支配下にあって、民衆は苦しんでいました。もちろんそれはローマ側だけではなく、ユダヤ側にも問題があったからです。たとえば経済においては、ローマの税に加えてヘロデ家は神殿の税を加わり、過重な負担がのしかかっていました。そして祭司貴族・徴税人らの富裕層と農民・労働者の貧困という格差も拡大していました。宗教的には、権力側についているサドカイ派、民衆に律法を説くパリサイ派、禁欲的集団生活をするエッセネ派、そして武装闘争も辞さない熱心党などに割れており、さまざまな自称メシヤも登場する非常に不安定な状況でした。その中で、メシヤが来て、この状況を打破してくれることを人々は熱望していたのです。
マルコは福音を語るにあたって、まず「はじめ」として預言者のことばが引用されています。共観福音書は旧約とのつながりを語っています。(もちろん、当時は旧約ではなく聖書そのものでした)。キリスト者共同体には多くのユダヤ人がいたのですから、彼らに向けて伝統を語るのは当然でしょう。しかし、それ以上に、メシヤの到来は神の約束の成就であるという、神の真実の告白でもあるところが重要でしょう。これは福音書に限らずローマ書でも同様です。パウロはその冒頭で、福音は預言者たちによって約束されたもので、神の御子に関することであると書いています。パウロは具体的な預言はあげていませんが、マルコはここで、イザヤとマラキの預言を引用しています。(イザヤは預言者の代表として、他の預言者の分もイザヤの名で呼ばれることがあります)。主(ヤハウェ)の日の前触れとして、その道を整える役割の人が遣わされる者があるという預言です。舞台でいう「前座」のような者の存在は、メシヤの前に「エリヤ」が来るといった形で期待されていました。主の前に道を整えるというのは、基本的には主をお迎えする心の準備と、ふさわしい行いをするということでしょう。そして、そのメッセージそのものは、古来預言者たちが語ってきたものです。
さて、数ある預言の中で、ここでは、「荒野」がキーワードとなって、バプテスマのヨハネと話がつながってきます。ヨハネの風貌は、いかにも旧約以来の預言者といった感じです。当時、荒野で厳しい集団生活を送っていたエッセネ派といわれる人々との類似もしてきされます。すなわち来るべき神の裁きを説くこと、水による浄めを行っていたことなどです。しかし、彼らの集団生活に対して、ヨハネは単独で行動し、民衆に直接訴えかけていた点で大きく異なっています。いずれにしても、このヨハネの言動を一つの転機として、これからメシヤの活動が始まることになります。当面は、ヨハネとイエスの共通点と相違点が焦点になるでしょう。次回は「バプテスマ」をキーワードとして、このテーマに踏み込んでいきましょう。