礼拝メッセージ要約
2025年10月12日 「ローマ書のまとめ」
ローマ書1章
11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
13 兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。
14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
この長い手紙を振り返り、要点を整理しましょう。著者がローマにいる信徒たちに「福音を伝えたい」と強く願っているというのが背景です。本来は直接「御霊の賜物をいくらかでも分けたい」のですが、しばらくそれがかなわないので書いたのがこの手紙です。ですから、ローマ書の目的は、御霊の賜物の共有に役立つような言葉をかけることです。ですから、ローマ書を読む私たちも、御霊の賜物を共有することが求められます。
この御霊の賜物は、必ずしも超自然的体験から与えられるのではなく、福音(良い知らせ)によってもたらされます。ただし、それは単なる情報としての言語ではなく、救いを得させる神の力です。すなわち、福音とは神の聖霊による救いのわざということになります。そして、そのわざとは、「神の義」の現れです。「義」とは、単に法律的に正しいというのではなく、へブル的な義で、「施し」の意味も含む、「人道的な正しさ」を意味します。ですから、神の義とは「神の道の正しさ」の事です。この神の道が人に及ぶ時に成立するのが「信仰」です。ローマ書は、当然この「信仰」に焦点を当てます。
ただし、ローマ書は「信仰」について説明すること自体がゴールなのではありません。そもそも、神と人との信頼関係は、旧約以来、すべての土台です。問題は、その信頼関係が何によって確立するのかということです。ここで、ローマ書の隠れた主題であるユダヤ人問題が登場します。これが主題なのは、パウロの目指すものが、福音によるユダヤ人と異邦人の統合だからです。言い換えると、民族、宗教を超えた普遍的な救いです。この「普遍性」をパウロは語ります。まず、1章後半に罪の普遍性を語り、そこにはユダヤ人も異邦人も関係ないと宣言します。そこから必然的に「律法」が問題になります。まずはユダヤ人側に、神の義は「律法」によらないことを説明します。
まず、律法を信仰と対比させます。つまり、ローマ書での「信仰」は、あくまでも「律法ではなく」という文脈で理解しなければなりません。単に「信じること」と「行動」の対比ではないことがポイントです。信仰のも行動が含まれ、律法にも信じることが含まれているのです。問題はその中身です。まずパウロはユダヤ人に信仰の意味を説くために、彼らの先祖アブラハムの例をあげます。彼が義とされたのは律法が与えられる前であって、それは彼が神を信じたからです。神の義とは律法とは別に与えられるのだから、ユダヤ人と異邦人の区別を超えているという論点です。そしてその信仰の決定的な出来事として、イサクを捧げる場面を上げ、彼の信仰の核心は「復活」であったことを示します。もちろん、復活とは、神の約束が人間の限界を超えてでも実現するということです。そして、キリストの復活によって、今や神の約束が成就したことを告げ、この復活を信じる者は、アブラハムと同質の信仰を持つと宣言されます。
パウロはまたダビデも引用し、罪が赦された者の幸いを語ります。この赦しが徹底的なものであり、それがキリストの十字架によることが5章で明示されます。すなわち敵であった私たちのために死んでくださったキリストによって、神の究極の愛が現れました。5章後半は、あらためてキリストご自身にフォーカスが当てられます。アダムとキリストの対比を通して、改めて福音は全人類に向けられたものであり、神の恵みが強調されます。そして、「律法が入ってきたのは罪が増し加わるためであり、しかもそれは恵みが満ち溢れるためだ」という、罪、律法、恵みという3つが不可分であるという、ローマ書の最深部分の議論に進みます。
このあたりからは、神と人との外的な関係から、キリストとの相互内在という福音の根幹の話になります。6章ではキリストとつながるという表現でまずそれが表現されます。いわゆるバプテスマの話で、これが続く「相互内在」の基盤になります。「キリスト」がイエスという特定人物を超えて、霊的現実であることが明らかになるのです。これがなければ、福音は福音とはならず、単なるユダヤ律法から異邦人律法への転換になってしまいます。ですから、この「内在」こそ福音の核心であり、聖霊の出来事なのです。続く7章では罪と律法の不可分が語られます。ここにいたって、律法による神の義が不可能であることが結論付けられます。ですから、8章に至って、律法から解放され、いのちの御霊の世界に導き入れられた私たちの「福音世界」が語られるのです。それは、キリスト、聖霊との相互内在の世界であり、神の子どもとされ、長子であるキリストの姿に帰られていく恵みの道なのです。この神の愛から引き離すものは何もないとの宣言によって前半はしめくくられます。
この結論の光に照らされて現実世界を見ると、福音に反している同胞ユダヤの姿があります。普遍的な福音が同胞から拒絶されていることをどう理解するのかという問に対して、パウロは徹底した神の選びの主権を説きます。イスラエルの悲しむべき現状は、神の主権のもとにあるという、ある意味では不条理とも言えるところまで行くのは、逆に将来への希望を確信するからでもあります。つまり、その選びには目的があり、ついにはユダヤ人と異邦人がキリストにあってひとつとされるビジョンを確認するのです。8章ですでに、被造物全体の救いが語られていますが、11章では、その中にイスラエルも含まれていること、そしてそれは異邦人の救いと一体であることが述べられます。その中でパウロは、異邦人がユダヤ人に対して傲慢にならないようにという、重大な警告を述べています。「ひとつ」とは、同化でも融合でもないという、核心的なポイントがそこにあります。
12章からは、この福音の光の中で、今どのようにあるべきかという実践的なことが述べられます。まず礼拝の本質は私たち人間が生きたままで神に捧げられ、「キリストのからだ」として生きることです。この「からだ」を成り立たせるのは神の賜物であり、その賜物に生かされる生活の本質が赦しと平和です。そして、13章では、地上の権力に対しても、その原理が変わらないこと。そして14章では、信仰の現れ方が異なる人たちの間でも、同様であることが述べられます。このあたりは、キリスト者の自由と、その行使についての現実的な議論で、当時の状況が前提になっている部分です。律法からの自由をどのように実践していくかは、今日の私たちにも課せられている課題なのです。
以上、長大なローマ書を一気読みしました。長大ですが、手紙ですから本来そのように読むべきでもあるのでしょう。このローマ書は、福音の核心に触れていますが、そこから世界は限りなく広がっていくのです。