礼拝メッセージ要約
2025年10月5日 「頌栄」
ローマ書16章
21 私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています。また私の同国人ルキオとヤソンとソシパテロがよろしくと言っています。
22 この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。
23 私と全教会との家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の収入役であるエラストと兄弟クワルトもよろしくと言っています。
24-26 私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、
27 知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。
いよいよローマ書の最後になります。21節から23節は、パウロの同労者からローマの教会への挨拶です。パウロは単独で行動していたのではなく、多くの同労者に囲まれていました。パウロの教会の一員なのです。チーム・パウロとも言えるでしょう。テモテは同労者と呼ばれていますが、パウロの愛する弟子でもありました。続いて、同国人3名が記されています。同国人すなわちユダヤ人だと言っているのは、福音がユダヤ人のものでもあることを強調しいからかもしれません。また、テルテオは筆記者です。パウロは基本的に口述筆記で手紙を書いていましたが、筆記者の名前が記されているのはここだけです。筆記者の能力も重要なのは言うまでもありません。ガイオは家主と呼ばれています。大きな家を所有し、そこで集会が開かれていたようです。また、エラスとクワルトの名前もあがっていますが、エラストについては、彼が寄進した道路の舗装タイルがコリントで発掘されたそうです。また、クワルトは典型的な、奴隷または解放奴隷の名前です。チーム・パウロには幅広い人材が備えられていたことが推察されます。このような挨拶に続いて、パウロは長大な頌栄をもって手紙を結んでいます。
最後に、この頌栄を読みましょう。この長い文は、「あなたがたを堅く立たせることができる方に」、すなわち「知恵に富む唯一の神に」栄光がありますようにという頌栄なのですが、その間に、堅く立たせる手段が2つ挟まっています。「私の福音とイエス・キリストの宣教によって」と「奥義の啓示によって」の2か所です。そして、この「奥義」の説明が「すなわち」以下、いろいろと続いている構造になっています。ひとつずつ見ていきましょう。
まず「あなたがたを堅く立たせること」の「堅く立たせる」とは「確立させる」という意味です。アオリストなので、継続的ではなく確定的な行為です。つまり、私たちは立ったり倒れたりするのではなく、確立した立場に置かれ、またその立場にふさわしい者としてくださるのです。広い意味で「救い」と言ってもいいでしょう。その「救いの神に栄光あれ」というのが最初の部分です。救い神は、厳密に言えば「救うことができる神」です。この「できる」と言うところが重要です。神の救いとは神の行動、働き、力によるということです。私たちは単に神について知ることで救われるのではありません。また、神をめぐる宗教活動に参加することによって救われるのでもありません。神の働きによって救われるのです。「イェス、神は救い」というのはそういうことです。
この救いの神は「知恵に富む唯一の神」と言い換えられています。「知恵に富む神」というのは珍しい表現です。ここで「知恵」が登場するのは、「奥義」が語られているからでしょう。この「奥義」については後で検討します。今確認するのは、救いの神が知恵の神でもあるという点です。救いという神の行動は、単なる力の発動ではなく「知恵」でもあるということです。知恵は、ユダヤ教の中でもしましば登場しますが、当時のギリシャ世界でも重要な位置を占めている概念です。その中には、ある種の「知恵」を持つことによる救いという宗教もありました。「悟り」のようなものです。しかしパウロは、救いに関する知恵はあくまでも神の側にあることを確認します。知恵の神が救いの神でもあるのは、そういう意味です。
それでは、その知恵がどのように伝わってきたのかを確認しましょう。まずそれは「私の福音とイエスキリストの宣教によって」きました。因みに「福音」と「宣教」は同じことです。まとめて福音宣教と言ってもいいでしょう。それは「奥義の啓示」で、以前は隠されていたものが露わになることです。「黙示録」の黙示と同じ言葉です。ですから、ローマ書をパウロの黙示録と呼ぶことも可能なのです。この奥義は、まず「預言者たちによって」示されました。そして、神の命令によって、すなわち神の時(カイロス)に現れました。現れたのはもちろんキリストです。キリストが奥義の啓示であり、そのキリストを伝えるのが福音宣教です。そして、その目指すところは、ユダヤ人だけではなく、諸国民が従順の信仰に至ることです。このように、この頌栄は、ローマ書の冒頭の部分とほとんど同じ内容が語られています。ローマ書は、冒頭と最後に書かれていることの詳しい説明だと言えるかもしれません。ですから、その内容は、人々に伝えることであると同時に、神への賛美の内容ともなっているのです。
以上でローマ書本文を読み終えるのですが、ローマ書はそれ自体で完結している書ではなりということです。これは手紙ですから、パウロという書き手と、ローマにいる信徒たちという読み手がいます。大事なのは、両者の交流であり、それは、霊的、精神的、物質的なものです。私たちが分かるのは、その交流のパウロサイドからの情報です。さて、それを読む私たちは、彼らと同時代ではないし、地理的にも別です。しかし私たちには有利な面があります。それは、彼らの交流のその後の歴史を、ある程度は知っていることです。いや、知っているだけではなく、私たちもその中にいます。聖書の中でも特にローマ書は、しばしば大きな歴史の転換をもたらしてきました。個人でもそうですし、社会でもそうです。なぜ転換をもたらすのかと言えば、それは、ローマ書の内容と歴史の現実にずれがあるからです。通常、書物と歴史にずれがあれば、書物の方が消えていきます。しかし、ローマ書は消えず、かえって歴史の中で、古いものが消えていくのです。
それは、まず、パウロが言うように、福音は救いをもたらす神の力だからです。神が歴史を導いておられる以上、歴史の方が動くのは必然です。もう一つは、ローマ書のメッセージには普遍性があるからです。不思議なことに、ローマ書はあまり理想を語ることはありません。確かに将来の希望は書かれていますが、それは終末論的なビジョンで、神の専権事項です。人間がそれに向かって何かをするという面は薄いです。一般的には、書物は理想を語り、現実はその理想に向かって動いていくというイメージがありますが、そのような甘い理想論を述べているのではないのです。
それに対して、普遍的な内容とは、今ここで通用し、さらに、いつでもどこでも通用するものです。罪、律法、義、恵み、選び、信仰、一致などの核心的な内容が普遍的だということです。しかし、こういう疑問もわくでしょう。それらが普遍的なら、なぜ現実世界はそうなっていないのか。むしろ逆の状況ではないか? この疑問に対するのは哲学の領域でしょう。パウロはその方向の議論はあまりしません。というのは、そのような議論はどのように進むとしても、最後は、「そうだから、そうなのだ」という所で終わるしかないからです。「なぜ」という問に最終的な答えはありません。何を答えても、その答えに「なぜ」と問うことができるからです。パウロも自問自答する場面はありますが、結局最後は神の主権に属するという形で議論を打ち切っています。哲学としては未完ですが、歴史の中で完成することはありません。ですから、私たちは神への賛美でしめくくるのです。