礼拝メッセージ要約
2025年9月28日 「善にはさとく、悪にはうとく」
ローマ書16章
17 兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。
18 そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。
19 あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。
20 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。
どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
前節までの、ローマにいる友人への挨拶と、同行者からの挨拶の間に、警告の言葉が挿入されています。一見不思議ですが、パウロは他でも同様の一言があるので、彼の心情を表しているのでしょう。警告自体は、いろいろな箇所で書かれています。それは、外から入ってきて信徒たちを惑わし、分裂や躓きを引き起こす人たちを警戒するようにとの警告です。パウロが目指すのはキリストにある一致ですが、それを壊そうとする人々がいたのです。それが、外からの人であっても、もともと内側にいた人であっても、警戒しなければならないのは同じです。これも、微妙な問題は孕んでいるので、慎重に読んでいきましょう。
18節で、彼らはキリストではなく、自分の欲に仕えていると言われています。ここで「欲」と訳されているのは「腹」という言葉です。この「腹」は、文字通りには胃腸などの消化器官や子宮を指し、象徴的には心を表します。幅広い意味がある中で、「欲」は食欲と結び付けた訳なのでしょう。一般的には、この欲を物欲と理解して、物欲のエッセンスである金銭と結びつけて理解することが多いでしょう。福音書に「神と富とに兼仕えることはできない」という有名な言葉があります。宗教と経済の関係は大変重要なテーマですが、ローマ書のこの箇所はもう少し限定して読んだほうが良いでしょう。彼らは、「あなたがたが学んだ教えにそむいて」います。この学んだ教えが、どこまでの範囲なのかはわかりません。しかし、パウロとしては、このローマ書で語られている福音を指しているでしょう。その福音に逆らって、彼らは純朴な人たちをだましているとパウロは言っています。もし、「腹」が金銭のことを指しているのなら、「神と富に兼ね使えることはできない」という教えを無視し、純朴な人をだまして金銭を搾取しているということでしょう。もちろん、これはあり得ることで、カルト集団で時折大きな問題になるのは周知の事実です。キリスト教会も、カルト化しないように十分注意する必要があるのは言うまでもありません。
ただそれだけではなく、「腹」を文字通りに受け取ることも必要です。まず胃袋です。もちろん、食欲はすべての欲の基本ですから、それを「欲」と訳すのは正しいですが、これを食事の問題と関連付けて考える人もいます。
というのは、他の手紙でも問題となっている、「ユダヤ化主義者」が分裂をもたらしているという、大問題があるからです。具体的に言うと、ユダヤ人と異邦人が共存している現場(共に食事ができる場)に来て、律法問題を持ち出して、両者を引き裂くというケースです。分裂とは、律法を壁にして両者が交流できなくなることであり、躓きとは、パウロが14章で述べていたような、いわゆる「弱い人」を躓かせる「無律法化」のことです。これがパウロの福音に反しているのは明らかでしょう。このような「律法主義」と「無律法主義」の問題は、パウロが詳細に述べてきた重要なテーマで、キリスト者自身が「内部から」このことに取り組む必要があります。同時に、外から「悪意をもって」このテーマをぶち壊す人たちがいるのですが、当面、そのような人たちを議論によって対処することは不可能です。残念ながら、「彼らから遠ざかる」しかありません。
ここで「悪意をもって」という点について考えます。彼らは「なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人をだます」のです。脅迫ではありません。「なめらかなことば」は、もっともらしい話とも言えるでしょう。また「へつらいのことば」は、人の心をくすぐることばでしょう。要するに、彼らは人心掌握術に長けているのです。これは、セールスから詐欺、果ては扇動にいたるまで世の中に満ち溢れています。この中で、詐欺は明らかに悪意を持っていると言えます。自分が嘘をついているのを知っているのですから。しかし他はそうとも限りません。セールスは正統なものであれば問題ないので、ここでは関係ありません。問題は「扇動」です。「群集心理」を動かす術です。キリスト教に限らず集団一般にも言えることですが、一種のカルト化現象とも言えるでしょう。問題は、この時、それを促している人々は、必ずしも悪意を持っているのではなく、むしろ、心底それが良いと信じて行っている可能性があることです。
律法主義を持ち込もうとした人も、以前のパウロ同様、それが正しいと信じていたでしょう。当時のパウロは、その熱心さで知られていたでしょうが、ここでの「彼ら」は、もっと「魅力的」な態度で誘惑したのかもしれません。いずれにしても、結果的に「純朴な人たち」が騙されてしまいます。パウロが語りかけているローマの信徒たちは「従順」な人たちです。「素朴」と「従順」は同じ方向性でしょう。しかし、その「従順」の中身が問われます。パウロは「従順」を「信仰」と同義で語るので、結局「信仰」の中身の問題と同じです。従順を律法主義にとれば、すでに教わった福音という律法から、ユダヤ的な律法に変えたり、律法自体を捨てたりしないように、という警告になります。要は、キリスト教からユダヤ教に戻ったり、無宗教になったりするなという話です。しかし、ここまで何度も学んだように、従順とは、外部から与えられた規則に従うのではなく、自分が聖霊によって変容されるという意味で、キリストのことばの中に生かされるということです。純朴とは、キリストのすがたに変えられるということで、簡単に騙されることではありません。
これはまさに現代的な問題でもあります。SNS上では、投稿者は真実だと思った偽情報が大量に拡散されています。パウロの時代は、わざわざ教会を訪問しなければ騙せませんでしたが、今は、いつでもどこでも簡単にできます。しかも、純朴な善意のユーザーが、「いいね」を押したり、再投稿したりすることで、偽教師たちの協力者になってしまうのです。偽教師を避けるだけではだめで、自分がそれに加担することも避けなければなりません。これは非常に困難なことですが、ローマ書の視点がヒントになります。すなわち律法の問題です。大量の情報をすべて真偽判定することは不可能ですが、律法、すなわち何らかの「規範・ルール・法則」を主張するものに対しては、特に警戒しなければなりません。そのようなものは、まずは「」カッコに入れる必要があります。例えば、栄養食品の紹介自体はよいとしても、「これを毎日食べたらこうなる」というような、規則性を主張するものは警戒しなければなりません。それが、「なめらかで、へつらいのことば」でなされているなら、なおさらのことです。全部肯定したり否定したりしないで、カッコに入れるのです。そこには忍耐が要求されるでしょう。白黒を安易につけず、聖霊の導きを求めるのです。それが、善意にはさとく、悪にはうとくなることです。
そうなれば、平和の神が、私たちの足の下でサタンを踏み砕いてくださるとパウロは締めくくっています。これは、創世記にある、エバの子孫(メシヤ)がサタンの頭を砕くという表現の繁栄です。ここでは、平和の神が、キリストとの相互内在にある私たちの足の下で砕くとなっています。いずれにしても、砕くのは神であって人ではありません。しかし同時に、私たちとキリストとの相互内在が強調されているのがポイントです。そして、相互内材はただの言葉ではなく、私たちが「善にはさとく、悪にはうとい」あり方と切り離すことはできません。それは、律法主義ではなく、聖霊によって開かれる世界なのです。