礼拝メッセージ要約
2025年9月21日 「初期の教会」
ローマ書16章
1 ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。
2 どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。
3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。
4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
5 またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。
6 あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。
12 主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。
13 主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。
14 アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。
15 フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく。
16 あなたがたはきよい口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。
パウロはこの手紙を挨拶で締めくくっています。挨拶をおくこと自体は、当時の手紙として普通でしたが、これほど大勢の人に言及しているのは、パウロとしては珍しいことです。まず、自分では行ったことのないローマに、これほど大勢の知人・友人がいたことは驚きですが、それは、福音の働きが広がっていたことの証しでしょう。この箇所は、まずフィベの推薦から始まり、後はローマの教会にいる多くの人たちへの挨拶が続きます。今回の学びでは、ここに登場する人物ひとりひとりをたどるのではなく、このリストから見える当時の教会の様子を伺いたいと思います。
まずフィベの推薦です。これは、フィベがローマ書という手紙をローマに持参するため、いわば彼女にお墨付きを与える意味で書かれた紹介文ではないかと言われています。そうだとすれば、彼女は歴史的な大役を担っていたことになります。フィベというのは、ギリシャ神話からとられた名前です。当時、奴隷に神話の名前をつけ、解放後もその名がしばしば使われたので、彼女は解放奴隷であろうと言われています。因みに、今回の挨拶文には、彼女の他にも解放奴隷あるいは奴隷と思われる人の名が記されています。(アンプリアト、ヘロディオン、ツルポナ、ツルポサ、ペルシス、ヘルメス、ユリヤなど)。
フィベは、ケンクレアにある教会の執事であると記されています。当時の執事は固定的な職種というよりも、指導的な奉仕者を指していたと思われます。(後代の職種としての執事は基本的に男性でした)。初代教会の特徴は、奴隷や女性も活躍していたことです。3節のプリスカとアクラという夫婦でも、通常とは逆に妻の名が先に記されています。プリスカが教会で大きな役割を果たしていたからでしょう。他にも何人もの女性の名前があがっています。男性中心のユダヤ教世界では異例のことだったでしょう。しかし、その後のキリスト教世界では、再び男性中心の組織になってしまいました。今日でも、教会で女性の比率は高く、また中心的な力になっているにもかかわらず、指導的な立場には圧倒的に男性が多い状態です。
これには、もちろん社会的、文化的な背景がありますが、男性中心を正当化するために新約聖書のことばが使われていることにも注意をしなければなりません。テモテ書を始めとした後期の文書では、次第に組織化されるキリスト教の中で、固定的な役職が生まれ、社会構造と似た、男性中心のシステムが作られていきました。ローマ書は、まだそのような時代ではありませんから、多くの女性が活躍していたことが記されています。ただし要注意なのは、比較的初期の手紙であるコリント書にも、女性(特に妻)に対して、男性と対等な行動を慎むような発言が記されている点でしょう。今日でも、コリント書の女性に対する言葉をそのまま機械的に受け取り、身だしなみまで含む行動規範としている教派もあります。それも、いわゆる聖霊派の中に見られるのは注目されます。コリント書の聖霊についての記述を受け取るなら、女性についての部分を受け取るべきだという考えなのでしょう。もちろん、聖霊派には、それとは正反対のタイプもあることも忘れてはなりません。昔も今も、それぞれの場所、時代に特有の事情があるので、画一的な判断をすることはできません。
女性の地位についての歴史的な背景として、キリスト者共同体以外にも目を向ける必要があります。それは「グノーシス主義」と呼ばれる強力な運動の存在です。それは、新約聖書が成立していく時代と並行して、キリスト者に大きな影響を(良くも悪くも)与えていました。彼らの運動も多様でしたが、中には非常に強力な女性の指導者をかかえている集団もありました。基本的に禁欲的な運動の中で、女性は性的な対象という存在から解放され、男性と対等な地位につくことも可能であったようです。ある意味では、現代のリベラル運動にある「脱ジェンダー」的な方向と共通する面があったと言えるかもしれません。(ただし、基本的に禁欲的で、物質的なものに敵対する面は別です)。初期のキリスト教制度が、次第に男性優位になっていった原因の一つは、このグノーシス集団に対する警戒感があったからとも思われます。そして、この問題は、キリスト教文化圏にある、極端な保守とリベラルの対立にもつながっています。この現代的な問題の中で、私たちは聖霊の導きを切に求めていく必要があります。
ここで、聖書の女性観について整理します。まずそれは多様であり、時代とともに変化していることを認めることが前提です。古代(アブラハムたちの時代)は一夫多妻の家父長的な制度で、女性の地位は低かったでしょう。ただし、そのような社会だからこそ、数々の女性が活躍した記録が光を放っています。社会はどうであれ、神は女性を用いられることの証明です。このことは、単なる男女平等の観点から理解するだけでは不十分です。聖書はキリストを指し示している、いわゆる救済史の書ですから、女性の救済史的な地位が重要です。それは、ずばりキリストを地上にもたらす媒体としての存在です。創世記冒頭の記事によれば、堕落したアダムは「労苦して最後には土に帰る」存在であり、イヴは「苦しみながら子を産む」存在です。この「子を産む」というのは、生物的な話以上に、約束されたメシヤの系譜を産むという意味です。これを、生物的、社会的な面だけで見るから、家父長制度の話になってしまうのです。もちろん、私たちは、社会的な生物としても生きているのですから、その側面を無視することはできません。しかし、私たちはあくまでも救済史の中に生かされている者として、聖霊の導きのもとに進んでいく必要があるのです。
しかも聖書にあるのは救済史だけではありません。歴史の変遷を超えた、人間存在の本質にかかわる問題があるのです。それが、アダムとイヴの関係から浮かび上がる「人間とは何か」という問題ですが、今ここで立ち入ることはできません。ローマ書は、この人間の本質に関することが書かれていますが、男女のことについて具体的に触れられてはいませんから、他の書物も含めて理解を深めていくことが求められます。