礼拝メッセージ要約
2025年9月7日 「パウロを通して働くキリスト」
ローマ書15章
14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。
15 ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。
16 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によってきよめられた、神に受け入れられる供え物とするためです。
17 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。
18 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、
19 また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。
20 このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。
21 それは、こう書いてあるとおりです。
「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」
前節で福音についての本文は完了し、ここからは、いわゆる「あとがき」になります。1章冒頭の前文に対応して、あらためてパウロは自身に与えられた使命を確認します。それは、異邦人への使徒であることです。これを何度も強調しなければならないのは、ローマ書の読者の多くがユダヤ人だからです。「ローマ人への手紙」と新改訳聖書では名づけられていますが、実際にはローマにいる信徒たちへの手紙であり、その中には多くのユダヤ人がいました。パウロ自身はユダヤ人でありながら、随分異邦人に肩入れしているようにも見えたでしょう。なにしろ、ユダヤ人に向かって「律法からの卒業」を説いたのですから。自身、「かなり大胆に書いた」と言っているとおりです。このメッセージは、異邦人にとっては純粋に「良い知らせ」でしたが、ユダヤ人にとっては躓きの可能性を持っていました。しかしパウロはそこでお茶を濁さずに、ストレート(大胆)に語りました。それは、このこと(律法からの卒業)が福音の核心をなしていたからです。
それでもパウロは彼らに対してかなり配慮をしています。この福音は、自分に言われるまでもなく、彼らはすでに知っていること、そして、互いに訓戒(教え)あることもできることを了解していると言います。お互い訓戒できるのは、すでに教えが皆の中で一定程度定着していることを示しています。ですから、彼は何も新しいことを教えているのではなく、あくまでも思い出してもらうために書いたと言っています。それは事実の面もありながらも、やはり謙遜でしょう。1章冒頭で彼は「福音を伝えたい」と言っているのですから。それは単なる言葉ではなく「御霊の賜物を分け与える」ことでもあります。それは聖霊の出来事なのですから、ただ知っているだけではだめなのです。もちろん、1章でも続けて「互いに励ましを得たい」と、パウロからの一方通行ではないことは付け加えてはいますが。いずれにしても、パウロが遠慮気味なのには訳があります。それは、ローマの教会がパウロによって成立したのではないからです。20節にあるように、彼は、未だ福音が伝えられていないところで宣教をしたい(いわゆる開拓伝道)を望んでいました。それにも関わらずローマの教会に関わるには、それなりの理由が必要だったのです。
その理由は、祭司として「異邦人を神への供え物とする」ことです。これはもちろん異邦人地域で開拓伝道する理由でもありますが、ローマを含むすべての教会においても、異邦人が正しい位置をしめなければならないという切実な要因があります。当然ユダヤ人も供え物とされるのですが、ユダヤ人と異邦人がそれぞれ別個に供えられることがあってはなりません。それはひとつの「供え物」なのです。この「ひとつ」が如何に大きなチャレンジなのから言うまでもないでしょう。これを可能にするのが福音であり、その核心部分に律法からの卒業があるのです。そしてそれは、単に言葉によるだけでは出来ず、聖霊の働きによるしかありません。そして、パウロはローマにもその必要があることを感じていたからこそ、何とかしてそこに行こうと願っていたのです。この願いと計画は、この後の箇所でも述べられます。
ここでは、祭司や神への供え物といったユダヤ教的な表現が使われている点に注目します。もちろんユダヤ人読者を想定しての表現ですが、単に「供え物」という動植物を連想させるものより、聖別(神のために分けられた存在)ととらえるべきでしょう。(12章ですでに生きた供え物として自身を捧げることが書かれています)。「異邦人を神への供え物とする」と言うとパウロが彼らを供え物にしているように感じますが、原文は「異邦人という供え物がふさわしい(神に受け入れられる)ものとなるために」であり、それをなすのは人ではなく聖霊です。その聖霊の働きにパウロは仕えているという意味での祭司です。そして、その聖霊に導かれて私たちは自分自身を供え物として捧げるのです(それがふさわしい礼拝です)。
この聖霊の働きは、18節ではキリストの働きであると述べられています。この意味では、キリストも聖霊も働きにおいては同一です。すでに8章で、キリストとの相互内在は聖霊との相互内在でもあることを学びました。パウロが誇るのは、彼自身ではなく、彼を通してなされたキリストの働きです。この働きが、一時的な「天から降ってきた」ようなものではなく、キリストとの相互内在によって、いわば内側からでてきたものです。このキリストの働きはパウロを通してあるものに向かっています。それは「異邦人の従順」です。この従順とは「謹んで聴く」という意味です。聴くのはもちろんキリストのことば(キリストという「ことば」)です。要するに、キリストはご自身のことばの所に人々(異邦人)を導かれるということです。そして、その働きがパウロ(たち)を通して行われるのです。もちろん、この「聴く」ということには、それに反応して行動することも含まれます。そのため、この言葉を「聴従」と訳す人もいます。良い訳ですが、それも律法主義のもとで理解されてしまうと、結局、主の戒律を聞いて、それを守るということになり、何のための福音かわからなくなってしまいます。ですから、私たちは遠い所から下りてくる命令を聞いて実行するのではなく、私たちを通してキリスト(聖霊)が働かれるように、自分自身を差し出すのです。
パウロは、自身の体験について、キリストは、ことばと行ないにより、 また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくだったと書いています。すごいことですが、それはあくまでもキリストのわざです。当時も今も皆がパウロなのではありませんから、キリストが各人を通して行われることは多彩です。それについては、すでに12章でキリストのからだの比喩から語られているとおりです。私たちはそれぞれ、自分を通して働くキリストのわざを自覚し、さらに他の人の場合も認め、それらが相働いていく道を歩まなければなりません。
このキリストのからだにある多彩さは、パウロの時代以降、今日にいたるまで、途方もない規模で拡がってきました。この運動の先駆者のひとりであるパウロは、開拓の道をさらに進めようとしています。それについては次の箇所で読むことになるでしょう。では、私たちはこの「多彩さ」にどう向き合うべきなのでしょうか。聖霊の知恵と導きが切実に求められます。