礼拝メッセージ要約
2025年8月31日 「異邦人への使徒」
ローマ書15章
8 私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、
9 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。
「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」
10 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」
11 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」
12 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。
異邦人はこの方に望みをかける。」
13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
パウロはここまで「強い人」と「弱い人」との関係について述べてきました。8節から再び「異邦人」について語るのは、一見意外な感じもします。しかし、結局「強い人・弱い人」問題は、律法にどう向かい合うかの問題であり、そもそも異邦人がキリスト者にならなければ発生しませんでした。(厳密には、ユダヤ人だけであっても、律法からの自由がある限り、問題は発生したでしょうが、異邦人が加わることによって、この問題が顕在化したとも言えます)。いずれにしても、すでに異邦人が増えてきたのですから、ユダヤ人は現状を積極的に受け入れるべきです。当然、そのためには聖書(旧約)の支持が必要となります。そこで、パウロは念には念をいれて、ここにいくつかの聖句を列挙しています。(引用はギリシャ語版旧約聖書からのものを含みます)。要は、異邦人がユダヤ人と共に神を信じあがめるようになることは、ユダヤ人の先祖たちに約束されたものであり、キリストはそれを含めた神の約束を保証するためにユダヤ人として来られたということです。そして今やその時代が訪れているというのが福音です。ローマ書冒頭には「福音は神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです」とあります。パウロは、このローマ書の長い旅をほぼ終え、ここで出発地に帰ってきたと言えるでしょう。(このあとは、今後の予定やあいさつを含めたやりとりが中心とした後書きになります)。
言うまでもなく、「ユダヤ人と異邦人が共に」という時の「共に」の内容が問題です。ユダヤ人律法主義者にとっては、「異邦人がユダヤ化する事」を意味します。それに対してパウロは、「ユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで」と説きます。これは文化的なことではなく、福音の本質にかかわることですから、パウロはローマ書で徹底的にこのテーマを論じてきたのでした。そして、このセクションで、ほぼそのテーマは完了したと言えるでしょう。いや、完了したのはパウロの福音説教であって、その適用はここから始まると言えます。そして、それは今も終わっていないのです。現在でも様々なテーマがありますが、いくつかを14章からここまでを振り返りながら考えてみましょう。
まず確認するのは、ローマ書と他のパウロ書簡との関係です。ローマ書は言うまでもなくローマにいる当時のキリスト者に向けて書かれたので、特有の傾向があるのは当然です。すぐに目につくのはガラテヤ書との違いです。どちらも「信仰義認」という福音の根本についてはっきりと書かれていますが、律法問題への適用は、やや雰囲気が異なります。ガラテヤ書は、「律法からの卒業」について非常に先鋭的であり、自由が強調されています。対してローマ書では、律法主義そのものは断固否定しているものの、いわゆる「弱い人」が律法の慣習を守ること自体には理解を示し、容認と協調を勧めています。外部から見れば、前者(ガラテヤ)は「過激」、後者(ローマ)は「穏健」ということになるでしょう。違いがおそらく以下のような事情によります。前者では、ユダヤ人信徒が中心である所に異邦人信徒が入ってきた状況で、律法からの決別を言わなければ、異邦人側がユダヤ人側に飲み込まれてしまう危険がありました。それに対して、後者ではすでに異邦人側(及び異邦人同様に自由に行動ができるパウロ等のユダヤ人たち)が十分に強くなっていたので、むしろ「弱い人」への配慮が必要になっていたのでしょう。これは、主義主張の変節という問題ではなく、聖霊の導きのもとになされるアガぺの実践と言えるでしょう。
周知にように、このガラテヤからローマへの変化は、その後に別の展開(悪い意味で)が起こります。異邦人が主流となった教会が、キリスト教という形で制度化されると、少数派となったユダヤ人が異邦人に同化させられるという逆転現象が起こりました。ローマ書の内容は捨てられたのです。モーセ律法はキリスト教律法にとってかわられました。要するに、ユダヤ版から異邦人版の律法主義に変わったのです。再び聖霊の働きは抑圧され、パウロの「御霊を消してはならない」という勧告も無視されました。もちろん、近年ではいわゆる「聖霊運動」なるものが起こり、めざましい働きもあります。ただし、そこで「聖霊の力の現れ」ばかりが注目されると、本来の「聖霊対律法」という根本命題が忘れられる危険があります。(例えば聖霊運動が復古主義になったり、反対に無法状態になったりします)。
ですから、ローマ書はコリント書とのつながりも重要になります。コリントでは、聖霊運動が無秩序に陥っていたからです。いわゆる、自由のはき違いです。(もちろん、ガラテヤ書にも自由についての忠告があります)。聖霊の働きは、キリストのからだを建てあげることです。ローマ書12章のテーマは、コリント書との関連で読まなければならない所以です。同時に、この「キリストのからだ」が制度的教会組織と同一視され、律法主義に逆戻りする危険もありますから、この課題は常に、今ここで起こっているのです。律法主義と自由の乱用という両極に挟まれて、私たちは聖霊の導きの下で狭い道を歩まなければなりません。これは「道」なので常に変化し続けます。その中で、私たちは聖霊ではなく人間を頼ってしまえば、必ず失敗し幻滅することになります。パウロがこの箇所で、「望みの神」という言葉を使っているのは示唆的です。
忍耐の神同様、望みの神も、まずは人間が神に望みを置く(神の約束の実現を期待する)という側面があります。同時に、望みが神ご自身の性質であるという点も重要です。全知全能の神が何かを「期待する」の変に感じられるかもしれません。もちろんこれは神を擬人化しての表現です。ここで大事なのは、神の擬人化は、一歩間違えると偶像崇拝に陥る可能性がありつつ、同時に、神を固定化した律法と同一視する危険を避けるという積極面があることです。神の永遠を、何かの年表のように考え、人はただ時間の中で、その実現を待っているように考えるのではなく、私たちは聖霊によって、神と「共に」期待して生きるのです。旧約でも人々は神の救いを待ち望んでいました。それはどちらかと言うと、時間を超越した神が、時間の中に介入してくれる時(カイロス)を待つという感じでしょう。もちろん、これは今でもあることです。しかしパウロはこのことを単に繰り返しているのではありません。今や、ただ神を待ち望むのではなく、神と「共に」待ち望むことが実現しているのです。すなわちキリストとの相互内在です。それが福音に他なりません。
この相互内在に留まる私たちを、希望の神が「信じていること」における平和と喜びで満たしてくだるようにとパウロは祈ります。ちなみにこれは「満たし続けてください(現在形)」ではなく決定的な出来事を指すアオリストです。この出来事が、聖霊の力による希望において溢れ続ける(現在形)」ことへとつながるというのが直訳です。希望が人間からではなく聖霊から来るということです。パウロは、この祈りをもって、ローマ書の本体部分をひとまず締めくくることとなります。