礼拝メッセージ要約
2025年8月24日 「忍耐の神」
ローマ書15章
1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。
4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
私たちは、自分自身よりも、隣人を満足させ、徳を高め、その益になるよう努めるべきだとパウロは語ります。その根拠はキリストご自身の姿です。3節で、それに言及した聖書の句を引用したことから、パウロは昔書かれたもの(聖書)について言及します。すでに、聖書の言語について学んだように、それは「記述言語」よりも、ある種の「表現言語」です。すなわち、神の思いや意図が、神の息吹(聖霊)が吹き込まれることによって成立しているものです。すなわち「インスピレーション」によって表現されているものですから、それを読む私たちもインスピレーションによらなければその意図に触れることができません。パウロ自身も、単に頭で構築した論理ではなく、インスピレーションを受けて書いているので、その論旨が直線的に展開しないことがあります。ここで突然「聖書」の目的について触れているのもその一つでしょう。
そして、そのインスピレーションによれば、聖書の目的は、忍耐と励ましによって希望を与えるためだと言うのです。言い換えると、神はご自身を、「忍耐と励ましの神」として表現されているということです。聖書には様々なことが書かれていますから、普通に読めば、当然さまざまな神のイメージを持つことができます。ユダヤ教の歴史を遡ると、そこに様々な「神の名(呼称)」が登場します。最も基本的なのは、「エル(エール)」という力強い存在を指す言葉で、古代オリエント世界にて広く使われていたものです。内容は日本語の「神」に近いでしょう。ちなみに複数形はエロヒームで、創世記冒頭の「神が天地を創造した」に登場する神もエロヒームです。尋常でない力の現われに接した人間が、神をそのように(すなわち力ある神)として捉えるのは普通のことでしょう。そして、この「エル」に様々な修飾語がついて、「エル・シャダイ」、「エル・ロイ」などの名前となります。力の神をどのように体験したかによって、修飾語も変わるのでしょう。因みに、エルは「ミカエル」等の天使の名や、「ダニエル」等の人名、さらには「イスラエル」、「インマヌエル」等の重要語句にも登場します。
この「エル」系統とは別に、「ヤハウェ」という重要な名があります。主に、イスラエルと契約を結んだお方というニュアンスで使われていて、ヤハウェとエロヒームを両方つなげて使うこともあります。イスラエルの神の固有名詞のように扱われ、ユダヤ人にとっては最も神聖な名をされています。意味は、存在や生成を表す動詞からのもので、「わたしはある」というという、神ご自身が言われた名とつながっています。ですから、やはりそれは単なる名称というより、存在の根底、創造の主、約束を成就するお方といった内容が含まれていると見るべきでしょう。
このように、聖書の世界で「神」という言葉を使う時には、以上のような様々なニュアンスがあります。パウロは「忍耐と励ましの神」と言う時、もちろん、私たちに忍耐と励ましを、聖書を通して与えてくださるという意味もありますが、それ以上に、神ご自身がどのようなお方なのかを語っているのです。なぜなら、パウロの言葉は、聖書についての単なる解説ではなく、その言葉(ここではローマ書のこの箇所)も、ある意味では「神のことば(すなわち神の思いの表現)」でもあるからです。つまり、神のご性質がそもそも「忍耐と励まし」だということです。
神の忍耐についてはペテロも語っています。「主の忍耐は救いであると考えなさい」(Uペテロ 3:15)とあるのは、再臨が遅れていると人々が言っている状況の話です。ここでペテロは、神が再臨(ここでは裁きを意味する)を先延ばしにしておられるのは、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからだと言っています。つまり、ここでの神の忍耐とは、裁きを遅らせ、救いのチャンスを与えることを指しています。再臨の問題に限定するまでもなく、それは神のあわれみと慈しみという形で常に言われていることでもあります。私たちが「主よ、あわれみたまえ」と言えるのは、この意味での神の忍耐が前提にあるからです。
ただ、パウロのここでの論点はやや異なります。神が忍耐深く待っておられるのは、裁きについてではありません。私たちが「キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つように」なることです。4節にある「希望」も、このことを指しているでしょう。これは実に驚くべき言葉です。直前にパウロは「強い人」と「弱い人」の違いをあげ、その上でお互いを尊重するように述べています。すなわち、それぞれの「考え方」の違いを受けいれるべきだということです。では、同じ思いを持つとはどういう意味でしょうか。実は、この「思い」はこれまで何度も登場した言葉で、単なる考えや意見というよりも、「志向」と訳せる言葉です。内側にあるものが外側に表れる際の方向性とも言えるでしょう。この「方向性」が皆一致するようにということです。肉や安息日などについての意見を一致させるのではありません。
意見ではなく方向性だけなら簡単と思うかもしれません。同じ政党なのに右から左までいながらまとまっているものもあります。しかし、それは利害が一致している限りの話であり(例えば政権維持)、それが無くなれば分裂は必至でしょう。パウロが言うのは、そのような利害関係ではなく、キリストにふさわしいあり方が基準だということです。キリストご自身は、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおり、苦難を忍ばれた十字架のお方です。神の忍耐とはキリストの忍耐であり、すなわち十字架のことです。この十字架の中に律法の問題が隠れていることを見逃してはなりません。すなわち、律法から自由であるお方が、律法の下に生まれ、律法の下で生き、律法によって裁かれたのが十字架だということです。裁きは律法の使命であり宿命です。律法の上におられるお方が律法の下で裁かれ死ぬことを選ばれたのです。 それが神の愛、キリストのアガぺです。
そうであるならば、「強い人」(律法から自由な人)が、「弱い人」(律法の制約を受けている人)を受け入れるなど何でもないことのはずです。また逆もしかりです。しかし、実際問題としては簡単なことではなく、多くの忍耐と励ましが必要となります。異なる意見や立場を維持した上で、利害関係抜きに共存し、さらには声を合わせて賛美を捧げることができるようになるのは、実は至難の業といってよいでしょう。それは、人間の生まれつきの本性(肉)とは相いれないからです。ですからパウロは、そうなるように祈っているのです。この「希望」は人間の努力では達成できず、神の業、聖霊の働きが必須です。すなわち、人間の忍耐ではどうにもならず、神の忍耐が必要なのです。5節と6節の祈りは私たちの祈りでもあります。キリスト教の歴史と現状を見るならば、これは途方もない希望であることは明らかでしょう。しかし、私たちの希望は人間ではなく神にあります。そして、その希望が実現することを、十字架が証ししているのです。